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マージナルマン

異なる複数の社会・文化集団の境界に位置し、いずれからも影響を受けながら、どちらにも完全には同化・帰属することのできない人間。
アメリカの都市社会学者、ロバート・E・パークはその異なる複数の集団について、”単に異なるだけでなく敵対し合う文化集団であり、境界人はそこを生きるべく運命付けられた存在”と論じたという。
ドイツの心理学者クルト・レヴィンは、子どもと大人の間にある存在をそう呼んだ。
遺伝子、国籍、性別、思想、職業、特性など、あらゆる事項についてのそれを想像することができる。明らかに敵対していなくとも、「180度違う考え」と表現されるような場合、その間には無数のマージナルマン的な有り様が存在しうる。
どれだけたくさんの経験を重ねたとしても偏りは生じるが、世界や業界に身ごと投じ、そこから移動することを体感すると、「どちらの言い分もわかる」というような心境になることがある。どちらの良さも、難しさも知ることになる。選択を強いられることなく問うてみれば、揺らぎも迷いも然るもの。迷わず惑わず、それ自体をよしとすると、もはや一方的な発言はできなくなるだろう。品のある寡黙さが、そこに生まれ続ける。

難しいことでもない。

たとえば、

規則正しく実直な、そして平穏だがほんの少し退屈な毎日。都会のビルの林で、南国のリゾートを想っていただくランチの後の、美しいまどろみ。整然と並べられたスチールのテーブルと木製の椅子。センスのいい海岸風のカフェで、少しだけ目を閉じる。ジャケットを脱ぎ、背もたれにかける。イヤホンからは、ボサノバとハワイアン。ゆるい南風が頬を撫でて、スパイスの炙られる香りを鼻先に感じる。幾年か前の旅の写真のダイジェスト、脳内再生。楽器のように流れる外国の言語と、ダイナミックに盛り付けられたディナープレート。
また遠くへ出かけてみようかと旅の計画を思いつく。手元のスマートフォンは、美しい音楽を奏でながらチケットとホテルについての確実な情報を届けてくれる。光の速度で。

午後のひとときは、日常とリゾートをつなぐ虹色のシエスタに相応しい。明日への活力の源。

あるいは、

夕焼けの美しい海辺の部屋、鳥の声で目を覚ます。朝はすこぶる早い。実をつけた鮮やかな野菜の苗、野生の生き物に取られる前に収穫するのは休日の楽しみのひとつだ。遠く離れた街に暮らした日々を懐かしむのは、ごくたまに。極東の街の巨大な書店、壁一面にひしめき合う知識の集合体。空調の効いた店内。錆とは無縁の燃費のよい車、艶めく車体。ショッピングで巡る、煌めくショーウインドウ。前衛的なデザインの、目をひく広告。最新の情報を映し出すディスプレイと、南島の鳥たちのようにカラフルに着飾るスタイリッシュな人々。
生活を豊かに心地よくしてくれる、新しい技術のつまった品物を買いに行こうと思い立つ。勢いのあるあの街へ。買い物は狩り。

早朝の光は、あたらしくて楽しいことを発想させる。健康的な刺激を求めて、動き出す力を引き出す。

どこにいても、なにかに思いを馳せて、わくわくする。
開けていく世界を願って、島を渡るように、異なる世界を次から次へと。
壁を超えて細胞から細胞へ移ろう溶媒のように。

どちらもよいと思ったなら、どちらもよいままであればよい。
海も山も。肉も野菜も。過去も未来も。

誰もがどこかはマージナルマン。

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