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14.女神アテナの梟 【マジックリアリズム】

「どんなに緻密に注意を払っても、影響はなくせない」

グラスに残ったアイスティーの氷はすっかり溶けて、マスターは濃いミルクのチャイを淹れてくれた。
僕の眠気はとても強く、いつもなら夜でもカフェインたっぷりの珈琲をいただいてから帰る。
まろやかな甘さにゆるんと溶け込むスパイス。芯から温まる。

「そうだね、でも影響を与えることがあっても、痕跡を残すのはしたくないんだ。影響させるって、刺激を受けたり響くものがあったりして、その人の中のなにかが変わったり動いたりするって言うことでしょう。それは仕方ないし、むしろ嬉しいときだってあるよね。でも、侵略するみたいにでなく、そうっと拝見して決して足跡を残さないようにしたいんだよ」

マスターは自分用の大きなマグカップで、同じチャイを飲みながら言った。

「足跡が残るってどういうことなんだろう」

「相手のなかに、自分の姿があるということかな」

「それが嫌なの?」

「嫌というより、してはいけない気がしてる」

「どうしてだろう、自分の姿がないなんて。知り合ったのに、仲良しなのに?」

「忘れてほしいとか、距離がほしいとかそういうんじゃないんだよ。私も人から刺激を受けたいし、話すのも好きだから、こんなふうにお店もやってるし。決して孤独を決め込みたいわけじゃないんだ。それに、トニーくんがこうやって、考えさせられるような問いかけをしてくれなくなったら、そっちの方が寂しいよ」

「僕って、そんなに難しい質問いつもしてる?」

「全然。ただ、シンプルなようで深い話が多いとは思う。嫌いじゃないよ」

「そうなんだ。自分ではわからないけど、そういう感じなんだね」

「まったく同じ人生なんてないから、みんなの経験を追体験させてもらえるでしょう。話を聴くってそういうところがあると思う。だから、いつも相手に余地があるのがいい。知りたい、聞きたい、見てみたいと思わせる未知の領域が無限に広がっているのを感じたいね」

「それなら、足跡を辿って新しく歩いて見てきたものを、その人なりの伝えるのでもいいじゃん。なんていうか、誰かにとって重要な存在になりたくないのかな」

「そうかもしれない」

小さなロウソクで温めながら煮出せるガラスのポットに、アンティークの電球の灯が写りこむ。
ゆらゆらと踊る炎の、不定のリズム。
火の動きは、僅かな畏れと安らぎを行き来するような会話に似つかわしい。
マスターは続けた。

「うん。その人が決めることだよね、受けた刺激を、その情報を、どう咀嚼して消化するのかは。予め構えすぎるところがある」

「セラピーみたいになったね、流れ的に」

「本当に。夜の魔力かな。君の力かな」

「あ、フクロウだ」

カウンターの右側に座ったマスターの向こう側、店の内壁の天井に近い高さ。打ち抜きの窓の先にあるきの枝に、小型のフクロウが停まっていた。
胸の羽毛をふわふわと風になびかせて、大きな眼で瞬きして。

「めずらしい。こんなに近くに来るなんて」

「鳴き声もいいけど、姿も可愛いね」

「女神アテナの聖獣」

「え?ゲームとか?」

「ううん、ギリシャ神話」

「マスター、引き出しが多い」

「いやいや、インターネットで調べられるくらいのことしか知らないよ。アテナはゼウスの娘、気高くて賢くて、男勝りで自由を愛した女神。森の賢者とも言われるフクロウが彼女の聖獣」

「ギリシャ神話って結構激しいんだよね、確か。美しくまとまった話じゃなかったよね」

「そうそう、若いときに少しはまったことがある。何冊か読んだ、神話の本。神様を登場人物にしてるけど実のところは人間社会の話だね。困った人たちのどうしようもないような揉め事や、殺し合いや、恋愛沙汰がたくさんつづられてる」

「感動する?」

「純粋に感銘を受けるっていうんじゃないけど、ファンタジックなところもあって冒険活劇としてもおもしろかったよ。感情の表し方のスケールがでかくて、爽快でもあるし、怖さもある」

「けっこうしっかり読んだんだ、いいな。しばらく読書に身を入れてなかったかも。活字を読んでるときならではの脳の熱ってあるよね。それに、発想が多くなる。窓の向こうにフクロウが来て、聖獣っていうふうにはなかなか思いつかないよ」

「イメージとか、言葉の連想が加速するよね、本読んでると。それにしても、フクロウ可愛いね」

「智慧を授けてくれるのかな」

「どうだろうね、授けてほしいものだね」

「うん、すごく」

少しだけ眠そうになったマスターは、すっかり夕闇に溶けそうなフクロウに釘付けで、目線は窓の外に向いていた。
僕は、思った。
こんなのが、マスターのいう「知りたい、聞きたい、見てみたいと思わせる未知の領域が無限に広がっている」ことなのかもしれない。
でも、自分以外の話はどれも新鮮で興味深いものだから、そんなの当たり前じゃないかとも思った。
そのように感じるマスターの感覚、感性、言葉選びそのものが、僕にとっては未知の領域に思えた。
ただの知識でも情報でもない。そこには彼の考えや思いを載せたストーリーがある。
どれだけ長い時間をかけても決して知り尽くせない無限の空間が、至近距離で並ぶ肩の向こうに果てしなく広がっているようだった。


To be continue..

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