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夕食の献立を考えるのが疲れた時(ゴッホ)

《馬鈴薯を食べる人々》はゴッホが好んで描いたモチーフである。ささやかな家族団欒の絵に、違和感を覚える方もいるのではないだろうか。食卓を囲んでいるにも関わらず、誰も楽しそうな表情をしていないのだ。左側の男性からは「またジャガイモかよ」と心の声が漏れ聞こえるかのようだ。席についた全員も思っているのであろうが、貧しいので他に食べ物の選択肢がない。

第一子の育児休暇中、平日の昼間に気分転換を目的として子育て施設に行くも、既に仲の良いママ同士で会話が盛り上がっており輪に入ることが出来ず、悶々としながら足を引きずるようにベビーカーを押していた。夫は仕事で帰りが遅く、子供と二人で取る予定の夕食の献立は、何も考えていない。産後じわじわと蝕む腰痛を抱えながら、寝かしつけまでの長い道のりを想い、人生そのものに疲れてしまっているかのような気分だった。

そんな時、この絵を観ると、どこか安心する。「家族みんなで食べたからと言って、全員笑顔で幸せになることとイコールではない」と語りかけてくれるからだ。同時に、『食卓は家族で楽しく囲まなくてはならない』という呪縛からも解放してくれる。

「今夜は第一子と二人きりなので、好きなものを食べよう。夫が苦手だから普段は作らなかったけど、エスニックに挑戦してみても良いかもしれない。」思いつくや否や、急に「第一子に何を食べさせようか」と不安が頭をよぎるが、戸棚にあるアンパンマンうどんで解決できそうだ。

ゴッホはゴーギャンとの共同生活の中で節約のために自炊を試みてスープを作るも、ゴーギャンに「おそらく、カンヴァスに絵の具を塗りつけるのと同じ調子でやったのだろう。いずれにせよ、食えた代物ではなかった」と回想されている。料理はおろか生活を整える努力をほぼ放棄していたわけだが、絵を描く以外の時間をほぼ全て、弟テオへの手紙を書くことに費やしていた。その膨大な告白文学の中で、こんな一文がある。

「僕も若い時には、取るに足らぬチャンスだとか、瑣事(さじ)だとか、誤解だとか、そんなもので物事は定まってしまうと考えていたが、齢を重ねてみると、まったく違った風に考えるようになってきた。もっと深い動因が見えてくる。ねえ、おい、人生も亦、怪しげな奴さ。」(No.345)

その怪しげな人生とやらに疲れ果てるのは、もう少し先でいい。冷蔵庫にあるトムヤムペーストをたっぷりと使ったトムヤムクンの味を想像しながら、足取り軽く、商店街を抜けて、家路を急いだ。


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