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銀行強盗

あれは新人研修を終えて、銀行の初任店に配属された朝。俺は行員専通用口に立ち、呟いた。
「八菱銀行、渋谷通り支店……よくここまで来たな、俺」
国内最大の貧困地区、故郷を思い出す。私大を受験する同級生から共通一次の参考書を、国公立を諦めた奴から赤本を譲ってもらい、猛勉強した高校時代。努力が実り、それなりの大学に入れた喜びも束の間、アルバイトに明け暮れた大学時代。今は国内最大のメガバンクでのキャリアが始まろうとしている。
配属された店は規模が小さく、大店や名店ではない。まあ、二か店目で大きな店に行けば良い話だ。いくらでも取り返しがつく。
努力で上がっていけば良い。今までそうしてきたように。そう思っていた。
「……え?」
俺の、最初のしくじり。それは行員証が、カバンから消えていたことだった。

「お前、良い度胸してんな」
鬼のような形相で、二十代後半の女性が通用口へやって来た。
指導担、黒川礼子。セクシーな女上司という妄想は、早々に打ち砕かれた。上下とも黒のパンツスーツ、黒髪ストレート。心の隙間に誰も入り込ませようとしない表情の作り方は、まるで女軍曹のようだ。
「新人は誰よりも早く出社。通用口で上司を待ち、ドアを開ける。昔は常識だったんだ」
彼女は『伊藤』と書かれた札を指さした。俺だけ赤色で、『黒川』『田中』『加藤』などの名前は、みんな白色。出勤しているらしい。
「はい、黒川代理。クロさんって呼んでいいですか?」
眉毛が上がった。美人は怒ると迫力がある。
「話を逸らそうとしても無駄だ」
あだ名作戦、早々に失敗。これで乾杯できると習ったのだが。
俺は彼女の、呼吸に合わせてかすかに上下する胸を見つめた。
「もうすぐ朝礼が始まるぞ。お前待ちだ」
「え?」
「簡単に自己紹介をしてもらう」
ドS上司は、俺のうろたえる様子がおかしくてたまらないらしい。オフィスへ続く廊下を歩きながら、必死で頭を働かせた。「趣味は映画です」とでも言おうか。でも、もし店に知り合いがいたら?「お前、最後に観た映画はアラジンって言ってただろ」とか返されそうだ。
結果として杞憂に終わった。店に生きている人間は、誰もいなかったのだ。

ロビーには、かつて働いていたはずの人たちが倒れていた。それは入口の名前が書かれた札を思い出させた。田中、加藤……。
「これ、ドッキリじゃないですよね?」
俺の希望的観測は、クロさんの顔色を見ると打ち消された。彼女は少し前に外科手術を終えて、手術室から出てきたみたいに真っ青だった。
ロビーに置かれたテレビでは、行員ニュースが流れている。
『今日は新入行員の配属日です。新宿支店に配属された、鈴木さんの紹介を……』
俺は死体から目をそらすために画面を観ていた。
「伊藤、来い。外に出るぞ」
クロさんに手を引かれて、来た道を戻る。
「ロビーの入り口から出ないんですか? あっちの方が近いですよ」
「まだシャッターが降りてる。九時になるまでは開かない」
沈黙。俺はそれが意味することがよく分からなかった。
「今の時間で店に出入りできるのは、行員の通用口しかない。私がお前を迎えに行った一瞬であれをしたんだろう。犯人は、まだこの店にいる」
彼女の声は震えている。誰かを守ろうとする時、無理して気丈に振る舞う時に出る声だった。
「へえ、生き残りがいましたか」
高めの男の声がしたのと、頭に鈍い痛みが走ったのは同時だった。

一瞬、世界が幕を下ろしかけたが、床に打ち付けられた痛みがそれをさせてくれなかった。俺たちは後ろ手に縛られ、金庫の前まで来た。
「この金庫を開けなさい」
俺は声の方向へ目を向けた。男女の二人組で、清掃員の服装をしていた。
「清掃員の振りをして、店に入れてもらったのか」
「ねえ。こいつ、やっちゃおうよ」
女の子の声、大学生になるかならないかくらいだろう。ツインテールが声とともに愉し気に揺れていた。
「そんな時間はありません。九時には開店して、客が来ます」
「ふうん。じゃ、金庫の番号教えてくれない?」
クロさんが四桁の数字を言い、カチッという解錠の音が響いた。
「こいつら、もう用済みだよね?」
「まだだよ。金庫にも暗証番号があるからな」
クロさんがうめくように言った。銀行強盗たちは顔を見合わせた。本当かどうか判断しかねているようだ。
「妙な真似はしないでくださいね」
男が言った。その声からは何の感情も読み取れなかった。人に好かれたくても好かれない、クラスに一人はいる嫌な奴を連想さえた。
女の子は陽気に笑い、冷たい廊下で、場違いに響いた。メキシコ人なのだろうか、それかよっぽど犯罪に慣れているかどちらかだ。

金庫の中は薄暗く、いやな湿気に囲われていた。山のように契約書があり、雑多に放り込まれている。何が大事なものなのか判断できない、大人になれない子ども部屋のようだと思った。
少し進むと、膝の高さほどの黒い箱に行きついた。俺は一流大学卒が集まるはずの銀行員の頭脳を疑った。誰がどう見たって金庫じゃないか。
「暗証番号を言いなさい」
「知らないね」
沈黙。銀行強盗たちは考える素振りをした。それは苦手としているようだった。
「ま、良いじゃん? この金庫だけ奪って、こいつら殺そうよ」
クリスマスのプレゼントを目の前にした子供のように、女の子の興奮が伝わって来た。クロさんが四桁の番号を言い、彼らはそれを入力した。
小さな扉が開いた。そこにあるのは山のような札束や金塊ではなかった。
「なんだこれ?」
銀行強盗たちは拍子抜けしたようだ。古いお札、分厚い冊子、電卓。そして、そろばん。一昔前の銀行員が使っていたものたちだ。
「こんなゴミのために、あたしたち……」
彼らは使い方を知らないのだろう。銀行員なら一番初めに使い方を習い、誰にでも使える道具だというのに。
「とにかく、これを持って行きましょう」
男は金庫の中のものを袋に入れた。
「さっさと行きますよ」
「先行ってて。あたしが始末しとくから」
男は去り、女の子が掃除機のノズルをこちらに向けた。

「それで店の人間から生命エネルギーを吸い取ったのか」
クロさんは落ち着き払った声で言った。
「へえ、事情を知ってる奴もいるんだ! あの死体の中にもいたのかな?」
「化け物め……」
「は? 化け物だって?」
女の子は清掃員のゴーグルとマスクを外した。女子高生くらいの年齢だろう。ブロンド、青い目、雪のように白い肌。世間一般で美人と呼ばれるすべての要素を持ち合わせていた。しかし美人とは没個性的を意味する。渋谷を歩けば同じ顔に容易に遭遇できそうだった。
「ざっけんなよ! ちょっと顔が良いからって! イラつく! 死ね!」
彼女は掃除機のようなものをクロさんに向け、スイッチを入れた。クロさんの黒髪は白髪に、白い肌は褐色の肌になっていく。数秒の内に、すっかり老女になった。
年老いた彼女を見て、俺はばあちゃんを思い出した。胸に刺さったボールペンに触れる。就職祝いに買ってもらったボールペンだった。

「ありがとう、ばあちゃん」俺は言った。
「初給料が出たらうまいもん食わせてやるから!」
ばあちゃんは泣きそうになっていた。

ばあちゃんは、いつだって泣かなかった。
借金取りに追われた俺たちを匿い、「ばばあ、てめえが体売るか?!」と怒鳴られた時も泣かなかった。パートをやりくりして全額返済した日の夜に、息子である親父が失踪した時も泣かなかった。
「しゃーない。ヨシのためだでね」
いつもこう言って、しわくちゃの顔で笑っていた。
もし俺が死んだと聞かされたら? 間違いなく泣くだろう。

俺は女の子に突進して、手から掃除機を奪い取った。彼女は無抵抗で、自分で言うのもなんだが、拍子抜けだった。
「……来たわね」
女の子はニヤリと笑った。
「あんた、美味しそうだから。直接吸ってあげるね」
「え?」
俺が一瞬ひるんだすきに、女の子は唇を、俺のそれと重ねてきた。身体がぞくぞくする。ずっと、そうしていたくなる。今までこんなに甘い口づけが、あっただろうか……。
朦朧とする意識の中、俺の目はクロさんを捉える。彼女の姿が、ばあちゃんと重なった。俺は胸ポケットからペンを取り出し、女の子の首筋に思いっきりつきさした。
「……っ!」
女の子が口を離し、俺は自分を取り戻した。掃除機を手に取り、それを女の子に向けた。
「ど、どうして……」
「俺、年上の方が好みなんだ」
そうして、掃除機のスイッチを押そうとした。四つほどボタンがある。正解がわからない。俺は直感に従って、一番上のボタンを押した。
すると、女の子はみるみるうちに化け物になっていった。

黒くてグロテスクな塊、かろうじて四肢がある生き物。天井に頭がつくくらい。つまり、超でかい。
「……かえって難易度上がった?」
あのボタンが正解だったが、考える暇はない。俺は掃除機を放り投げ、財布から一万円札を取り出した。エネルギーをお札に入れると、一畳くらいの大きさになった。
「え。あんた、まさか……」
声だけは女の子の化け物をよそに、意識を集中させる。大きくなったお札は魔法のじゅうたんのように、ふわりと浮いた。俺はそれに飛び乗った。うずくまるクロさんを抱え、じゅうたんに乗せて、廊下へ飛び出る。急いで店の入り口に到着するも、無情にもシャッターは閉まっていた。

クロさんが口を開いた。
「ロビーの、後ろ。そこにスイッチがある……」
進路は黒い化け物によって、遮られた。
「クロさん、スイッチを頼みます。俺がこいつを引き付けるから」
彼女を乗せたままのじゅうたんを、ロビーの後ろへ追いやった。もう一枚、お札を取り出そうとした。しかし、財布に一枚も入っていなかった。グロテスクな塊は、大きく振りかぶって俺を薙ぎ払おうとした。間一髪のところでそれをかわす。一度でも食らうと衝撃でやられそうだ。
俺は走ったが、化け物に足をつかまれ、転倒してしまった。
「くそ、あと少しなのに……」
うつぶせのまま、店の入り口を見る。シャッターが開き始めていた。クロさんがスイッチを押したのだ。俺は意識をじゅうたんに集中させた。それはクロさんを乗せたまま化け物にぶつかり、俺の元へ来た。化け物がよろめいたすきを見て、俺はじゅうたんに飛び乗った。
シャッターが開き、光が差し込む。そこを目掛ける前に、化け物を見た。
「え、小さくなってる?」
化け物の光に当たった部分は、焦げて消失していた。
「なら……」
俺はじゅうたんを方向転換させ、二メートルほどまで縮んだ化け物を掴んで乗せた。クロさんの咎めるような目を感じながら、入り口へ急ぐ。そうしてシャッターの隙間から外へ出ると――
「きゃああああ!」
化け物は太陽の光をいっぱいに浴び、消えていった。

空の上で、死んでいるように眠っているクロさんを見つめた。
「……そうだ。これでエネルギー吸ったんなら」
俺は掃除機のダストボックスをあけた。
「これをクロさんにあげれば、若返るんじゃね?」
ダストボックスをクロさんに振りかけると、元に戻っていった。
「伊藤……?」
「あれ。クロさん、こんな若かったっけ?」
「バカ、何やってるんだ! さっさとふさげ!」
十代前半のクロさんは、あわててダストボックスの蓋を閉じた。しかし手から滑り、掃除機は下に落下。ゴミ収集車の上に落ち、運び去られていった。
「……下手したら、私たちの運命もああなるぞ」
渋い声で言うも、大きめのスーツを着た女子中学生なので説得力に欠ける。
「でも、まずこう言うべきか。ありがとう」
彼女は笑った。あたたかく、深い笑みだった。

地上に降りると、黒塗りのクラウンが停まっていた。
「まずは丸の内本部に報告に行こう」
乗り込むと同時にクロさんが言い、運転手さんは車を発進させた。車内は冷蔵庫があり、ミニバーがある。それらはクロさんの目を輝かせた。
「酒、飲んでもいいか?」
「未成年はちょっとねえ」
運転手は困った顔を見せた。クロさんの風貌が女子中学生だからだろう。「……私は二十七歳だぞ」クロさんのドスを聞かせた声。
「そいつは良いね」運転手さんの軽快な声。
俺はビールを飲もうとした。クロさんが恨めしそうに見つめている。視線が痛い。コーラの瓶を二本取り、開けた。一つをクロさんに渡す。彼女は驚いた顔をして受け取った。
「「乾杯」」
外は穏やかな気候で、春の嵐が吹き荒れている。まるで銀行員生活の初日みたいだ。
しかし、後に知ることになる。――こんな事件は、まだ序の口なのだと。

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