見出し画像

vol.5 学校に行けない中学生たちが作ったイブラヒムへのアルバムのこと 

本当はみんな、手を差し伸べようとしてくれていた

少し、間が空いてしまいました。

長男と私にとってイブラヒムプロジェクトに関わったことは、
今思うと、大きな希望を与えてもらえたものですが、
その途中は、先の見えないトンネルを灯りもない中手探りで
歩んでいるようなものでした。

誰も、そんなことやっていないし。
本当にイブラヒムに手渡るのかもわからない。
手渡ったとして喜ぶかもわからない。
何が支援なのかも、わからない。
ただ、何もしないよりは、何かした方がいい。
世間や、学校から忘れらているように感じる中で、
「一緒にやろう」と言ってくれる人がいたこと、
そのことが、何よりも嬉しかったのです。

学校の先生とも、色々ありましたが、
イブラヒムの事を相談した時に、実はクラスで話し合ってくれていて
「ベルマークを集めたらバスケットボールがもらえるかも!」と、
生徒会でベルマークを集める運動をしてくれていたことも後から知りました。

今思うと、あの時は孤独だと思っていましたが、
本当は皆、心を寄せてくれていたんだと思います。
それに気付いて、受け入れられるだけの心の余裕が
私になかっただけでした。

2021年6月25日イブラヒムプロジェクトのミーティング議事録…
自分で書いていたと思うと笑えます。
「学校とケンカをせず、協力しながら進めたい(笑)」
この時にはケンカしてでもやりたい何かがあったのだろうとも思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アルバムづくり



かくして、校長先生からの提案で始まった
イブラヒムへ応援メッセージを送ろうプロジェクト。

ここで、このプロジェクトに欠かせない、なくてはならない人を紹介します。イブラヒムと私たちを繋いでくれた、元NHKのディレクター飯野真理子さん。

真理子さんは、イブラヒムに一年間密着取材をして、イブラヒムの番組を作られた方です。ただ、番組を作られただけではなく、イブラヒムの境遇を知り、深く寄り添い、イブラヒムのことを多くの方に知ってもらおうと心を寄せて寄せて来られていました。私たちは真理子さんを通じてイブラヒムの想いを教えてもらってきました。

そんな真理子さんに

・内戦前のシリアはとても美しく、人々がとても親切で優しかったこと。

・アラビア語は右側から書くこと

・Google翻訳を使う場合、日本語からアラビア語に翻訳するより、
 英語をアラビア語に直した方が精度が高いこと。

・メッセージを一度、英語に直して、そこからアラビア語にすること。

などなどを、教えて頂きました。

長男と、幼なじみで同じく学校をお休みの女の子で少しずつ、
翻訳を始めました。
Google翻訳でコピー&ペーストをする、という単純作業でしたが、
タイピングも、Excelもほぼ初めての中では、2人とも大変な作業
だったと思います。

2人で協力して打ち込んでくれたエクセルのシート

それを、学校に持っていて、真理子さんのアドバイスのもとに作った
メッセージカードに書いてもらって…。

長男に、学校でアルバム作りを皆でしたら?
そう提案する私でしたが、「学校はイヤだ。」と。
行こうとすると、やっぱり行けない。
サッカーは、本当に楽しくいけるのになぁ。。。

ということで、仲の良いお友達をお家に呼んで3人で
皆のメッセージカードを切って、貼って、アルバムを作りました。


そうして完成したアルバム・・・


写真と、日本語と、英語と、アラビア語と・・・。

みんなのメッセージがひとつひとつ詰まったアルバム。
21ページが完成したのでした。

確認しながら最後のページに皆の名前を書きました。

メッセージは、相談しながら・・・

Thank you for being alive.
(生きていてくれてありがとう)

と、入れました。

何故か、書きながら、梱包しながら涙が溢れてきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『メダルに匹敵するぐらい嬉しい』

この時、TOKYOパラリンピックへの出場が決まっていたイブラヒムでしたが、コロナ禍での開催の為、気軽に出会える感じではなく・・・。
ちゃんとアルバムが手渡るのかわかりませんでした。
そんな中、このプロジェクトの代表の加納宏紀さんと、真理子さんが空港でなら渡せるかもしれない、と、5時間近く出待ちをしてくれてイブラヒムにアルバムを渡してくれました。

2人がイブラヒムに出会えて、アルバムが手渡ったことを知り、本当に安どの気持ちだったのですが、ここからドラマが起こります。

イブラヒムはIPC(国際パラリンピック委員会)の記者会見で、サプライズでアルバムを用意してくれていて・・・

「泰阜中学校の生徒からもらったアルバムはメダルに匹敵するぐらい嬉しい」と、語ってくれたのです。

通訳に入ってくれていた真理子さんから「電話がいくかもしれない」と連絡をもらいました。その後、学校にたくさん取材の電話が入ったようです。

中日新聞さんの記事。学校に行けなかったことは話せませんでした。

担任の先生がおつなぎ下さいました。いくつかのTV局や新聞社から、
「さくなり君(長男)の話を聞きたい」と言われましたが…。
その時、長男は、
「僕は、取材のためにやったんじゃない」と全く乗り気ではありませんでした。唯一答えたのが、この記事にある中日新聞さんだったのでは、と思います・・・。

アルバムができた経緯についても、自分が学校に行かずに
自宅で作ったこと等は、話せませんでした・・・。
学校へ取材が入った時も、学校の友達にすべて任せ、
長男は何も語りませんでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新聞に載って・・・
泰阜中学校の皆も、「そんなに喜んでくれるなんて!」と
とってもとっても喜んで、イブラヒムが出場する時には
クラス中でテレビを前に楽しみにしていたけれど、
難民選手団のイブラヒムが地上波にうつることはなく・・・。

「私たちの中ではヒーローなのにね。」

と、自宅のテレビの前で話していたのを思い出します。

イブラヒムは失格になってしまったのですが、その理由は、
残った左足も人工関節が入っていて、自分で十分に制御できないのだと。
その左足が2回ドルフィンキックをしたととられて失格になってしまう
そうです。

本来なら、日本水泳連盟のような
バックアップ団体があるそうなのですが、
難民アスリートには、そうした団体がないことも、
真理子さんに教えてもらいました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この後、イブラヒムは松岡修造さんの番組に出演したり、
その後も取材に答えたりしながら、精力的に活動し、
以前紹介したように、変える際には車椅子バスケ用の車椅子を3台受け取り、帰っていきました。

👇車椅子を渡したときのエピソードはこちらにまとめてあります👇

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここまでで、十分に私たちは、イブラヒムに助けてもらいました。
イブラヒムのおかげで、学校とも繋がれたし、
たくさん、長男と話せました。

でも、私たちはまた、イブラヒムに助けてもらいました。

パラリンピックが終わり、サッカーを引退し、
いよいよ受験、となった時に・・・

・・・・続く。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


前回までのお話の続きはこちら・・・


序章

vol.2 学校に行けなくなった中学生とイブラヒムのこと

vol.3 学校に行けなくなった中学生とイブラヒムのこと②

vol4 悲しかった日