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Happy Firstインタビュー~ vol1~  加納宏紀さん。何もないところから、難民障がい者のための財団を立ち上げるまでのストーリー

加納さんとイブラヒム選手

2022年が始まりました。

2021年を振り返ると、Happy First の仲間たちから始まった、感動のプロジェクトがたくさんありました。少しずつ、仲間の紹介とともに、お伝えしていきたいと思います。
トップバッターは、加納宏紀さん。加納さんは、2021年混沌とする中開かれた東京オリパラを、誰よりも心待ちに、そして、誰よりも熱い思いで見届けていました。色んな声があったオリパラでしたが、加納さんの話を聞くと、この大会が開かれたことを、本当によかったと、思って頂けるはずです。

加納さんと、パラリンピック難民選手団イブラヒム・フセイン選手のお話です。

加納さんはなぜHappyFirstに入られたのですか?

今、商社で働いて6年目なのですが、コロナが流行る少し前ぐらいから、何となく、「人生、このままでいいのかな?」と感じるようになりました。仕事はそれなりに充実してはいて、結婚して、もうすぐ子どもが生まれ、父親になる、というところでした。それなりに、幸せではある。ただ、敷かれているレールに乗って走り続けるのが僕の人生なのかなって。これでいいのかなって。そこで、知人の紹介でエッセンシャルマネジメントスクールという本質行動学のビジネススクールに参加しました。その時に一緒だったのが石原孝尚監督でした。スポーツに興味があった僕にとって、サッカー界で輝かしい結果を残してこられた石原さんの話はとっても興味深く、そのご縁で、石原さんがHappyFirstSchoolを始める前身の「石原塾」に、参加させてもらうことになりました。

Happy First Schoolに入ってみての変化は?

たくさんあるのですが、一番は、自分の本当の思いに素直に動けるようになったことですかね。

僕は中学、高校の頃からずっと体育教師になることを目指していました。でも、大学を出て教員として働いたのですが、自分に合ってないと感じるようになりました。部活動の指導や保護者の対応に追われる中、どんどん、自分自身を見失ってしまい、苦しかったですね。今思うと、先生になる、ということは、自分で決めた事のような気がしていましたが、親の期待に応えようとしていたのでは、とも思います。Happy First Schoolで、毎週自分のBeing Doingに向き合い、仲間からの肯定的なフィードバックを通して、また、自分ひとりではできないことを、HappyFirstの仲間ともにやる経験をする中で、心の奥にしまい込んでいた「本当に自分が心から好きな事、やりたいこと」に気付けるようになってきました。

 僕が目指す人としてのあり方(Being)は、関わる人のその先まで、幸せ、元気、勇気を与え続ける存在でありたい。ということがはっきりと分かり、そして、スポーツが好きで、スポーツに関わっていきたいのだと見えてきたんですね。それが見えた時に、自分の中で何かが変わった気がしました。たくさん、モヤモヤしてきましたが、そのモヤモヤは成長痛だったのでは、と今は思います。

Being(ありたい姿)、Doing(成し遂げたいこと)が見えた後は?

2020年の10月に、石原監督が、Airbnbと共同でHappyFirstSchoolのメンバーに、2016年パラリンピック、リオ大会で難民選手団の旗手を務めた、シリア難民の競泳選手「イブラヒム・フセイン選手」の講演会を企画してくれました。その講演会で聞いたイブラヒム選手の話があまりにも衝撃的で・・・。その頃、スポーツに関わった仕事をしていきたいということを石原さんにも話していたのもあり、「イブラヒムを応援するためのプロジェクト、やってみない?」とお声がけ頂いた時、直感で、とにかく「やってみよう」と思いました。


イブラヒム・フセイン選手はどんな方なのですか?

彼は、もともとシリアの競泳の選手でシリア国内の大会でも上位入るぐらいの実力のある選手でした。ですが、シリア内戦が始まり、2013年のある日、爆弾の被害を受けた友達の「助けて」の声を放っておくことが出来ず、飛び出したら危ないとわかっている中で、友人を見殺しにするぐらいなら死んでも良いという覚悟で爆撃のシャワーの中を、友人を助けるために飛び出しました。その結果、彼は右脚を負傷し、膝下を切断しました。

 適切な医療と義足を求め、トルコに亡命しましたが、言葉もわからない中で、公園で雑草を食べながら、どんな仕事でもしながら、必死に生きてきた。そして、ギリシアに渡り、治療を受けられ、歩けるようになった時に、再度、泳ぎたいと思い、トレーニングにトレーニングを重ね、国際舞台に立った、そんな選手です。

 世界には8200万人の難民がいるということ、さらにその中にはイブラヒム選手のように、7~10%が障がいを抱えているということ、彼らの中には家の中に閉じこもり、誰とも話さずに過ごし、生きる希望を失っている人も多くいること、その人たちは全くケアされておらず、忘れ去られている。時には無視されることもある。そんな人たちがたくさんいることを、イブラヒム選手との出会い、このプロジェクトを通して知りました。

 イブラヒム選手は幸いにも治療が受けられ、国際舞台に立てるようになりましたが、彼は、自分と同じ難民障がい者の為に、自分も何かしたいと、今も難民キャンプに顔を出し子どもたちと触れ合っています。

『僕は難民の方へスポーツを通して希望を与えたい。』
『たくさんの人たちに、難民のこと、難民障がい者のことを
 知ってもらいたい。』

『自分と同じ思いを誰にもさせたくないのだ』

彼の、その言葉を聞いた時に、何か自分の中で突き動かされるものがありました。

イブラヒム選手に対して、どんな支援を?

最初は、HappyFirstのメンバーの有志が5~6人集まり、そこで何ができるか、という所からの話し合いでした。何の知識もつながりもない、ただ、自分にできることを何かしたい、という思いだけからのスタートでした。イブラヒム選手を取材し続けてドキュメンタリー番組も制作した元NHK報道局ディレクターの飯野真理子さんにも仲間になってもらいました。

イブラヒム選手と一心同体であるかのような通訳もされる真理子さん から、イブラヒムの声を聞きつつ、少しずつ話し合いを重ねてきましたが、難民というだけでも支援が届かないところに、障がいというハンデがある方への支援は、びっくりするぐらい何もありませんでした。

 イブラヒム選手は、競泳の選手ですが、「難民」の方が関わるスポーツのほとんどが個人競技であることを残念に思っていました。彼は、自分を絶望から救ってくれたスポーツの力を信じていて、スポーツを通して人々に希望を与えたいと思っていました。そして、スポンサーも何もない中で、車いすバスケのチームを立ち上げていました
 ただ、車椅子が足りない、練習場所がない、国際試合に出場するための移動費等、あらゆる物資が足りない状況でした。そして、どうやって届けたらよいのかもわからない・・・。自分たちにできることはほぼほぼないのではないか、そんな風に感じる事もありました。

難民だからこそ、チームでスポーツがしたい。

 そんな時、石原さんから「車椅子、何とかなりそうだよ」と連絡が入りました。さいとう工房さん、という電動車椅子工房さんとの出会いから、このプロジェクトは大きく動き出しました。

さいとう工房さんとの出会い

 さいとう工房さん(http://www.saitokobo.com/は日本でも有数の、障がい者用の車椅子を作っておられる東京都の会社さんです。これまでも発展途上国に、車椅子を作るための技術を輸出してこられている会社さんでした。斎藤さんと石原さんとの共通の知人を通して知り合い、このプロジェクトとイブラヒムのことを知った斎藤さんは、

すぐに「こちらを差し上げますよ」と2台の競技用車いすを用意してくださいました。

 斎藤さんは、1999年に、ある会社の研修プログラムの一貫で、パキスタンからの留学生を受け入れ、その留学生に、車いす制作の技術を教えたそうです。その留学生が、その技術を母国に持ち帰り、会社を立ち上げ、何百台も車椅子を作ったのだと。その後、パキスタンでは身体障害者の方の社会参加を助けるために、バスがノンステップバスになったり、歩行が困難な方に対して国が車椅子を提供をしていますが、そのきっかけとなったのが、この留学生でした。さいとう工房さんの技術が、国を変えたといっても過言ではないと思っています。

 更に、斎藤さんは、独自のネットワークで、競技用の車椅子を修理されている方にもこのプロジェクトの話をして下さり、広島から一台取り寄せて下さって…

プロジェクトを始めてから、半年程度で、なんと3台の車椅子が集まったんですよ。

皆さんのご厚意で集まった、競技用の車椅子。通常40~50万円はするという・・・

ぼくも、びっくりしました。

でも、ここから、高い壁にぶつかりました。

車椅子を送れない現実・・・

 車椅子は3台集まったのですが、その車椅子をどうやって送ったらよいかわからなかったのです。イブラヒムのチームメイトのいる、ギリシアとドイツに送りたかったのですが、ざっくり調べてみると、輸送費用だけで軽く50万円は超えてしまう。有志で何の資源もない中で活動していたので、その費用を捻出するだけの原資はない。しかも、届けたいのが「難民」である為に、本当にその人たちに届くかどうかもわからない…。この時初めて、「難民」という立場にある皆さんの思いを、思い知らされました。

車椅子はあるのに、届けられないなんて、、、

 ここまで来ると、できることはなんでもしようと思うようになりました。内なるエネルギーというか・・・。仕事の合間に、航空会社に問い合わせたり、ドイツやギリシアの大使館に足を運んだり…。

航空会社には、理由を伝え、何とか運んでもらえないかと掛け合ってみましたが断れ、ギリシアの大使館の方にもメールをしました。ですが、活動自体に意義は感じるが、予算がなく、輸送費を捻出することはできないとお断りの連絡をもらいました。その後、『輸送に関わる予算はないものの、別の形で支援できることはないか考えているので、お役に立つことがあるかどうかはわかりませんが、参事官がお話を伺いますのでよろしければご連絡下さい。』とお申し出を頂き、さいとう工房さんにもミーティングに参加して頂いたのですが、すぐに力になれることはなさそうだと終わってしまったり…。

皆さん、「何かしたい」という気持ちはあっても、「輸送費」という壁をどうしてもクリアできず、この時は八方塞がりでした…

そんな時、嬉しいニュースが飛び込んできたんです。

イブラヒム選手が、難民選手団の代表としてパラリンピックに出場できる!

無事にパラリンピックが開催されれば、東京に来る!と!


「イブラヒムが東京に来た時に、車椅子を持って帰ってもらう。」

できるかどうかはわかりませんでしたが、この3台の車椅子を届ける方法は、もうそれしか残っていませんでした。

だから、どうしても、イブラヒムには東京に来てもらいたかった。1年延期になったとして、その時に、イブラヒムがまた代表に選ばれるかどうかはわからない。

コロナ禍で、色んな意見があることは分かっていましたが、僕はどうしても、今年、開催してほしい・・・そう願っていました。

東京パラリンピックが開催。イブラヒム選手が入国した時・・・・

これまでに、こんなにパラリンピックを楽しみにしていたことは、ありませんでした。

パラリンピックまでに、オンラインでイブラヒムとは5回ほど、ミーティングをしていて、オンライン越しですが顔を合わせてイブラヒムの思いを聞いてきていて、必ずリアルで会いたいと思っていました。イブラヒムの入国のスケジュールに合わせて、仕事を調整して。

イブライム選手が入国する日、この活動の同士でもある通訳の真理子さんと一緒に、空港に会いに行きました。

イブラヒム選手を待てど待てど、出て来ず、待つこと、5時間

やっと、イブライム選手が姿を見せた時には本当に感動しましたね。

空港で僕たちを見つけたイブラヒムは、マスク越しにもわかる笑顔で、
「ようやくついたよ」と近づいてきてくれました。

東京に来るまで、フライトだけで10時間近くかかっていて、更に、コロナの検疫のため、成田に5時間も足止めをされて、相当疲れているにも関わらず、疲れを感じさせてない彼の対応に、ただただ、感動しました。

その時に撮った写真

その後、他の国の代表も続々できたのですが、みんな10人ぐらいの集団で出てきました。

ですが、イブラヒムはコーチとたった2人でした。パラリンピック中、難民選手団は選手村では一つのチーム、と報道がありましたが、普段は国籍がなく、それぞれの亡命先で活動している人たちなのだと…。入国の様子から、彼らがどんな状況で、どんな思いでここに来たのかと想像しただけで、胸がいっぱいになりましたね…。

車椅子が、渡せた日のこと。

車椅子を持ち帰ってもらおう、と決めてはいたのですが、選手たちは手荷物の個数が決まっていたり、持ち帰るためにはIPCの許可が必要だったりととにかく、規制が多くありました。

選手村で渡すことは諦め、イブライムに帰りの飛行機の時間を聞き、イチかバチか直接成田空港に持っていくことにしたんです。

仲間たちと、段ボール箱を2箱、ハイエースに積んで・・・

移し替えたりしながら、成田空港に持ち運びました。

一緒に活動しているメンバーの中に、車椅子マラソンのサポートをしている方がいるのですが、彼が空港の車椅子カウンターで、この箱には車椅子が入っているということを説明し、交渉してくれ、なんと、車椅子3台、追加チャージなしでギリシアに持って行ってもらうことが出来たのです。

追加チャージなしで車椅子が渡せた

イブラヒムは、本当に喜んでくれました。

そして、リュックにはこんなメッセージを掲げ、帰っていきました。


Thank you very much to all of your efforts and hospitality, Japan.

(日本の皆さんのご尽力とおもてなしに心から感謝します!)



彼を見送った時に、何とも言えない感情に包まれました。

イブラヒムプロジェクト今は

イブラヒム選手が難民障がい者のために立ち上げたATHLOS財団(https://www.athlosworld.org/)という財団があるのですが、その日本チームの立ち上げに携わり、日本チームが立ち上がりました。

 今、そんなアスロス日本チームをに支援してくれる企業も出てきてくれています。本当にありがたいです。今計画しているのは、イブラヒムを日本にもう一度招待しようという事。今度は、競泳ではなく。イブラヒム選手の想いの詰まった「車椅子バスケ」のチームの一員として・・・

これはきっと、実現すると思います。そして、また、素敵な出会いと奇跡が生まれるような予感がしています。

このプロジェクトを通じての加納さんの変化

 このプロジェクトに携わって1年ですけれど、本当に、何もないところからのスタートでした。
 まさか、車椅子が3台も集まるだなんて思っていませんでしたし、東京パラリンピックがちゃんと開催されるかどうかもわからなかったし、ましてやそこにイブラヒム選手が出場すること、帰国の際に車椅子を渡せること、何一つ、最初は見えていませんでした。

あったのは、大きな困難を乗り越え、真っ直ぐに生きているイブラヒム選手の「何か力になりたい」という思いだけでした。

イブラヒム選手が、「スポーツに助けられた」と言っているように、僕もスポーツに助けられてきた一人です。

 今回のプロジェクトを通して、スポーツを通して人と繋がったり、社会と繋がったり、世界と繋がったり・・・。スポーツを通して社会課題って解決できるんじゃないかな?と感じるようになりました。難民選手団の皆さんのように、すごく能力はあるし、人を勇気づける価値をたくさん持っていても、気付かれていなかったり認知されていないケースはまだまだあると思います。僕は、今後、スポーツ業界に携わって、光の当たらないアスリート達に、光を当てていきたい。そんな風に感じるようになりました。

 パラリンピックが終わった時に、イブラヒム選手が言っていたことで衝撃的だったことがあるんですけど、それは、「パラリンピックが終わった途端支援は途絶えたよ。まあ、元通りになっただけだけどね(笑)」という言葉なんです。

 ただ、知ってくれたとしても、支援が持続的でない限り、難民であり障がい者である方の生活はずっと脅かされ続けるでしょう。僕は、知ってしまった以上、もう見てみぬふりはしたくないと思うようになりました。彼らに、滞りなく支援が行き渡る、そんな仕組みを作っていくことに挑戦していきたいと思い、今は、スポーツ業界で修行を積もうと思っています。


最後に何か一言!


イブラヒム選手との出会いは、僕の人生を変える出会いでした。

最初、「支援をしよう」と思っていたイブラヒム選手は、今はともに、社会課題に取り組む大切な「仲間」です。

そんな大切な「仲間」のことを、1人でも多くの人に知ってもらいたい。

難民であり、障がい者でもある前に、彼は1人の人間として本当に素晴らしい人なので。

1人でも多くの人に、彼の事を知ってもらいたいと思います!


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加納さん、ありがとうございました。
自分の好きに素直に生き始めた加納さんが起こしたミラクル。
今は、本当にたくさんの人たちが関わってくれ、
少しずつ、支援の輪が広がってきました。

こんな、Happy First発信のプロジェクト、
まだまだ続きます。(書き手:野々山直美)

◎難民問題を考える~パラリンピック選手 イブラヒム・アル・フセイン~

https://sports-for-social.com/our-story/ibrahim-athlos/

◎Happy First 石原孝尚オフィシャルサイト

https://happyfirst.co.jp/


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