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【 エッセイ 】 人生の答え合わせ

「人はその時その時で無意識にベストだと思う選択をしている」
これは私が高校生の時、当時抱えていた悩みを友人に打ち明けた時に返ってきた言葉で、今でも強く印象に残っている言葉である。

誰しも何らかの壁にぶつかって悩んだ時は自分が一番いいと思う選択を必ずしているはずなので、終わったことに対して自分を責める必要はないということを言ってくれたのだ。

言われてみれば本当にそうだと思う。
これまでの自分の人生を振り返った時、後になって「あの時こうしていればよかった」と思うことはあっても、「じゃあ『あの時』自分は別の行動をとっていただろうか」と自問自答すると、やはりそれも違う。

これまで楽しかったこと、うれしかったことと同じくらい、深く悩んだことや挫折を経験したこともあったけれど、常にその時々において自分が正しいと思う道を選んできた。

ただ、その選択が本当にベストだったのかどうかは後になってみないと分からないということなのだろう。これまで自分が選択してきたものはどのくらい正解だったのだろう。年齢を重ねるにつれ、そうしたことを考える機会も増えてきた。言うなれば「人生の答え合わせ」だ。

今の自分が過去に自分が選択した結果の積み重ねだとすると、どうだろう。

私は幼い頃から、「人の役に立てる仕事」がしたいと思っていた。夢が消防士の時もあれば学者だったこともある。そのために「いい大学」に行き、「いい仕事」に就くことが必要と信じて疑わず、そのうちの半分くらいは叶えることができた。

しかし、今の仕事へ就くために本当に当時私が思っていた意味でのいい大学、つまり偏差値の高い大学に入る必要があったかと言われれば案外そうでもない。また、今の仕事が当時私が考えていた意味での仕事、すなわち世間一般的に羨ましがられるような仕事かと言われればやはり自信がない。

ではこれまでの選択の積み重ねに対する「答え合わせ」の結果は「間違い」だったのだろうか。

私は少しだけ違う気がする。
過去に自分が選択してきたものの捉え方自体が当時の自分と変わってきていると感じるのである。

いい大学とは決して偏差値云々ではなく「その時に自分が一番入りたかった大学」、いい仕事とは世間一般からどう見られるかではなく、自分が「この仕事なら社会の役に立てる」と心から思えた仕事、というように今では考えるようになった。そしてそのように考えている今の自分の目で「答え合わせ」をすると、ある意味で「全て正解」なのである。そのように自分を肯定できることで、充実した日々を過ごすことができるようになったのだ。

このように考えていくと、これまでしてきた自分の選択や生き方は、今の自分を肯定できるかどうかに深く結びついていることに気づく。
今の自分を肯定できれば過去の意味合いも自ずと変わってくる。逆に今の自分に自信が持てなければ、過去の自分まで否定してしまうことになり得る。常に自分を肯定してあげることは難しいけれども、「人生の答え合わせ」の回答はなるべくいつも「正解」でいたいものだ。

今、こうして何かを「書く」ということも、誰かの人生を少しでも肯定することにつながればという思いをもって行っている。誰かに笑顔になってもらえたら、誰かの心を少しでも震わせることができれば、「何かを書きたい」と思った自分の選択も、それを読んでいただいた方の過去に対する捉え方も変えられるかもしれない。

そんなささやかな願いを込めて今日もまた「何か」を書いているのである。

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