十川ジャンマリ

音楽ライター(日本音楽家ユニオン所属) シャンソン・日本歌謡を中心にコラムを書いており…

十川ジャンマリ

音楽ライター(日本音楽家ユニオン所属) シャンソン・日本歌謡を中心にコラムを書いております。

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誰も知らない「フランシーヌの場合」

新谷のり子さんへのインタヴュー SNSを読んでいて、あるシャンソン歌手の方が「フランシーヌの場合」を歌ってみたが未だマスターできていない、というような趣旨の投稿をしていた。そして、新谷のり子さんと知り合いであることを示唆する一節を見つけた。「うん?これは、もしかしたらチャンスが訪れたかもしれない。」と私は思わずほくそ笑んだ。ずっと前から新谷さんにインタヴューする機会を窺っていたからだ。 この歌が流行った頃、私は未だ小学6年生で意味はわからないまま、テレビで聞こえてくる歌謡曲

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    • 何故日本人は歌の趣旨を変えるのか?

      日本人は、日本語でシャンソンを歌うことが多い。 それは、日本でフランス語を聞いてわかる人が少ないこと、フランス語を正しく発音して歌うことが難しいことなどが主な理由だと思われる。 時々、フランス語のシャンソンしか認めないという過激な方もおられるが、日本語シャンソンは日本人の間で概ね定着している。 そこまでは、特に疑問を抱いたことがないが、一つだけ腑に落ちないことがある。訳詞する人が歌の趣旨を変えてしまう事象が時々あることだ。 どうしてそうなるのか? 懐かしのサンジェルマン?

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      • シャンソンでわかる日仏宗教観のズレ

        1990年以降の(フランスの)シャンソンは、時代を反映してか、カトリックの倫理観や聖書からの引用などはほとんど出て来ない。 ところが、エディット・ピアフの時代、つまり1940~50年代ともなると、キリスト教文化が色濃く投影されている。 日本人がそれらシャンソン・クラシック(伝統的なシャンソン)を理解しようとすると、キリスト教に基づく倫理観は大きな障壁として立ちはだかることになる。そして、ともすれば、自分なりに(日本人なりに)間違って解釈することに陥ってしまう。 今回は、そんな

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        • バルバラとダリダの恋愛観・結婚観

          若い頃の最初の結婚に失敗したという意味では、バルバラとダリダは共通している。ただ、その後の人生を追いかけると、二人がその人生で目指した方向性はかなり違っている。 その相違の意味と結果を順を追って説明しようと思う。 彼女らの最初の結婚 バルバラは、23歳で(1953年)クロード・スリュイという弁護士と結婚した。ブレイク前のブリュッセル修業時代に観客席から犬の糞を投げつけられて傷ついたバルバラのもとへ契約だけでなくマネジメントの面倒も見るという弁護士が現れた。それがクロードだ

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        誰も知らない「フランシーヌの場合」

          されど、Je t’aime moi non plus

          セルジュ・ゲンズブール(Serge Gainsbourg)は、いろんな意味で人から勘違いされやすい体質を持っているアーティストだ。シャイなところを隠そうと強がりで、わざと悪態をついたり、奇をてらった行動をしたりする。 そういう意味で、彼の代表作とも言える "Je t'aime moi non plus" も誤解されやすい作品の一つだ。 ここで一つ、セルジュを弁護するために書いてみたい。 B.B.のために書いた セルジュは、1966年にブリジット・バルドー(Brigitte

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          ステージを前にした黒装束の歌姫たち

          リサイタルを前にして楽屋にいる越路吹雪は、めったに笑うことのない一人の神経質な、か細い女性だった、と岩谷時子は伝記に書いている。 越路自身は、「私は、ふるえている哀れな小鳩よ」と言っていた。光輝く舞台の上の堂々と歌う大スターの外見からは、裏側で怯えるように出番を待つ越路の姿は想像がつかない。 同じようなことが、本場フランスの著名なシャントゥーズにもあった。 しかも、奇しくも3人とも黒を基調としたシンプルな舞台衣装を着ていた。 ピアフ、ジュリエット・グレコ、バルバラの順でご紹介

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          ステージを前にした黒装束の歌姫たち

          バルバラの謎のブリュッセル時代

          生存中、バルバラは彼女のブリュッセル修業時代について多くを語らなかった。1990年代、記者たちはバルバラを知る様々な知人・友人に取材し、証言を求めようとしたが、結局、詳細は不明なままだった。 本稿では、2つの伝記の記述と私の想像力によってその謎に迫りたい。 なぜブリュッセルを目指した? モニク(バルバラ)は18歳の時、父親が借家契約を破棄し蒸発してしまったため、伯母の家に住むことになったが、伯母は弟の医学の勉強を優先し、ピアノを借りる契約は破棄してしまった。音楽などという

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          漣健児のカバーポップス革命

          漣(さざなみ)健児こと草野晶一は、父・草野貞二が経営する新興音楽出版社(現:シンコーミュージック・エンタテイメント)から雑誌『ミュージック・ライフ』を復刊し初代編集長を務めていた。 洋楽ポップスの英語歌詞を雑誌で紹介する時に、その翻訳を書いていたら、「この曲、あの歌手に似合うんじゃないかな?」とか思うようになり、日本語詞を書くようになったと言う。最初は、訳詞家や作詞家などになる気はまったくなかったらしい。 一番最初に坂本九に書いたのは「ステキなタイミング」で、彼にジミー・ジョ

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          グループサウンズが歌謡曲化した理由

          1960年代の後半(昭和40年代の前半)、グループサウンズ(GS)が日本を席巻した。100を超えるグループがレコード・デビューしている。 い 他ジャンルからエレキサウンドへ エレキバンドのブームが起こった時、テレビでは2つのオーディション番組があった。フジテレビの「勝抜きエレキ合戦」と日本テレビの「世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド」で、前者には井上宗孝とシャープ・ファイブ、後者にはザ・スパイダースというハウスバンドがレギュラーで出演していた。シャープ・ファイブはロカビ

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          山口百恵と松田聖子

          日本歌謡史でアイドルと最初に呼ばれたのは、1971年の南沙織デビューあたりからだと言われている。 その後、トップアイドルは、5年毎に登場した。70年代前半は天地真理、そして後半は山口百恵、1980年代になって前半は松田聖子、後半は中森明菜と続いた。 私には、その姿が源平交代説(源氏と平氏が交代で天下を取るという学説)のように思われてならない。 何だそれは?と思われる方のために、山口百恵と松田聖子をサンプルとして論を展開したいと思う。 多様・多彩とワンパターン 山口百恵は、

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          山口百恵と松田聖子

          これじゃ、フリマか学園祭模擬店だ!

          渋谷の駅前開発がかなり進んできた。 オフィスとショッピング・モール、つまりビルばかりの街に完全に生まれ変わろうとしている。 私が大学生だった1970年代の後半、渋谷駅周辺にはもちろん西武やパルコはできていたが、個人が経営する商店や飲食店が多くあって、それぞれの店はいろんなアイデアに満ち溢れていて個性的で面白かった。 ショッピングモールやテナントビルには、大手企業のチェーン店が入っており、渋谷でなくても新宿でも池袋でもどこでも同じ店があるので地域の特性が出ないし、味気なくて興味

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          シャンソンの毒気 : Mon légionnaire

          私の印象では、日本語シャンソンはサラリとし過ぎていて、やや面白みに欠けている。日本語詞に変換する段階で灰汁が取り除かれて、まるで抒情歌のようになってしまっている。 シャンソンには、実はもっと毒気がある。グロテスクなところもある。 そんな真の姿を皆さまにご紹介したい。 初回は、こちらのシャンソンで… Mon légionnaire 愛しの兵隊さん  Il avait de grands yeux très clairs Où parfois passaient des éc

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          シャンソンの毒気 : Mon légionnaire

          西條八十の美空ひばりへの想い

          西條八十は50代後半に美空ひばりと出逢い、亡くなるまで彼女を見守り続けた。その類まれなる才能を少女の頃から見抜いていたし、大歌手になることを予感していた。 撮影所での出逢い 1950年、西條八十は「やまのかなたに」という映画の主題歌を依頼され、新東宝の撮影スタジオへ打ち合わせに出掛けた。帰る途中に友人の柳谷金語楼が主演の「向こう三軒両隣り」の撮影現場を通りかかった。ちょうど休憩時間で、セットの隅に小学生くらいの女の子が腰をかけていた。 「お嬢ちゃん、金五郎劇団の子かい?」

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          名前から読み解くシェルブールの雨傘

          嘗てフランスでは子供が生まれると、聖人の名から選んで名前(prénom)を付けることが多かった。マリー(Marie)と言えば聖母マリアだし、ポールと言えば聖パウロという風に。 日本人にはピンと来ないかもしれないが、それぞれの聖人には守るべき場所や事柄がある。例えば、日本の守護聖人は聖フランシスコ・ザビエルで、医者・薬剤師の守護聖人は聖コスマスと聖ダミアンの兄弟という風に。 今回は、名前(prénom)から映画「シェルブールの雨傘」の物語を読み解いてみたい。 ジュヌヴィエーヴ

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          名前から読み解くシェルブールの雨傘

          ピアフとして生まれたのではなく...

          エディット・ピアフは生まれながらの天才歌手だ、歌姫(ディーバ)だと言う人がいる。 もちろん、あの独特の声を含め歌手になる素質は充分あったのだと思う。でも、シモーヌ・ボーヴォワールが「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。」と言ったように、彼女はピアフとして生まれたわけではない。 恵まれた家庭環境ではなかった エディットは、父親が大道芸人、母親がカフェの歌手の家に育った。アーティストの一家だと言えばそうなのだが、音楽や声楽の基礎を学ぶような家庭環境とはとても言えなかった

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          作詞家・作曲家と流行歌手の蜜月期間

          エディット・ピアフの晩年には、いろんな作詞家・作曲家が自分の歌詞や曲を売り込みに自宅を訪れたと言う。 お金のためだけではない。あのピアフに自分の作ったシャンソンを歌って欲しいという想いが強かったからだ。 昭和の歌謡曲の場合は、芸能事務所やレコード会社などが新人歌手をどのような形で売り出すか企画していたので、新進の作家(作詞家・作曲家)が自ら売り込むのは難しかったかもしれないが… 前置きはともかく、同じ作家が流行歌手のために歌作りをした期間(年月)について今回は書いみたい。

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          作詞家・作曲家と流行歌手の蜜月期間