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シャンソンでわかる日仏宗教観のズレ

1990年以降の(フランスの)シャンソンは、時代を反映してか、カトリックの倫理観や聖書からの引用などはほとんど出て来ない。
ところが、エディット・ピアフの時代、つまり1940~50年代ともなると、キリスト教文化が色濃く投影されている。
日本人がそれらシャンソン・クラシック(伝統的なシャンソン)を理解しようとすると、キリスト教に基づく倫理観は大きな障壁として立ちはだかることになる。そして、ともすれば、自分なりに(日本人なりに)間違って解釈することに陥ってしまう。
今回は、そんな事例を挙げてみたい。

あなたは私の神様

エディット・ピアフの Mon Dieu(私の神様)で矢田部道一が作詞しているが、「あなたは私の神様」という歌詞になっていて驚く。
結婚式をキリスト教であげられた方、あるいは列席された方はおわかりだろうが、神様の前で新郎と新婦は愛を誓うのであって、新婦にとって新郎が神様だったとしたら、二人の神様と私の関係になって、誰に愛を誓うのか、誰を愛しているのか、かなり複雑な三角関係が繰り広げられることになる。
日本は多神教なので、あなたも神様なら、偉人(乃木希典や東郷平八郎など)も神様になり、お客様も神様(三波春夫ではないが)になり得る。
もしも、あなたが神様なら、一日でも長く傍にいさせてと誰に祈るのか?天の神様か、神様であるあなたにか?
正直言って、私には理解できない。

モナミ・ラ・ローズ

フランソワーズ・アルディに Mon amie la rose という歌がある。
シンガーソングライターの彼女だが、若い頃は作家に作詞・作曲してもらっていた。(竹内まりやの若い頃と同じように。)
このシャンソンの歌詞は、セシル・コーリエ(Cécile Caulier) が書いているのだが、キリスト教の知識がないと理解が難しい。

友達のバラは、「私は朝に生まれて、朝露で洗礼を受けた」と私に言った。
朝露で洗礼を受けるとは、どういうことなのか?
カトリック教会のミサにおける洗礼式では、聖水を頭に振りかけられるのだが、その洗礼を朝露で受けたとバラは言っているわけだ。
これは、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)がイエスの頭に川の水を掛けて洗礼する聖書の一場面から始まった宗教儀式なのである。だから、洗礼には水が必要で、私の庭に咲くバラは朝露が必要だったということになる。

そして、友達のバラは、神様を見て頭を下げることで自分の死が近づいていることを知り、「私の心はほとんど裸だ」と言う。
神様は畏れ多いので直視できず頭を下げるというのは、日本でも共通だが、「私の心がほとんど裸」というのは、どういうことだろう?
これは、生きている間、人間の心は様々な欲望や妬み・恨みなどを着飾っているが、死期を前にして素直な汚れ無き心になっていることを意味している。生まれたばかりの裸の赤ちゃんは、心も汚れが無い。イエスもそのような姿でこの世のお生まれになった。だから、心が裸であることに意義があるのだ。

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