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作詞家・作曲家と流行歌手の蜜月期間

エディット・ピアフの晩年には、いろんな作詞家・作曲家が自分の歌詞や曲を売り込みに自宅を訪れたと言う。
お金のためだけではない。あのピアフに自分の作ったシャンソンを歌って欲しいという想いが強かったからだ。
昭和の歌謡曲の場合は、芸能事務所やレコード会社などが新人歌手をどのような形で売り出すか企画していたので、新進の作家(作詞家・作曲家)が自ら売り込むのは難しかったかもしれないが…
前置きはともかく、同じ作家が流行歌手のために歌作りをした期間(年月)について今回は書いみたい。

阿久悠と桜田淳子

桜田淳子の場合、デビューの1973年2月から1977年9月までほとんどのシングルを阿久悠が作詞している。彼女は「スター誕生」出身なので、同番組の校長先生みたいな阿久悠が歌作りに最初から関与したわけだ。
「スター誕生」は、スターを誕生させるだけでなく、育てなければならないということで、番組・事務所・レコード会社が一体になって、淳子が少女から大人になっていく過程をシングルレコードにして3か月毎にリリースして行くのだった。
残念なことに、桜田淳子には山口百恵という強烈なライバルがいたので、最初はオリコンチャートで競り合っていたものの、次第に後塵を拝することになった。売れなくなったことで、事務所とレコード会社の決断で作詞家を替え、1977年11月の「しあわせ芝居」から中島みゆきが作詞・作曲することになった。

千家和也・都倉俊一と山口百恵

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