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短編小説「声」


「なあ、聞いてるのかよ」
 あんまり反応が鈍いものだから、おれは生卵を握りつぶすくらいの力で麻子(あさこ)の肩を掴んで、そう言った。夕食の後、今までずっとおれと会話していたのに、麻子は驚いた顔をして体を固める。警戒の仕草。眉間をしかめる。
「聞いてるなら何か言えよ。おればっか話してて、バカみたいだ」
 麻子はしかめっ面のまままばたきを一つ、おれの顔を不審そうに見る。そのあと急に取り繕うように頬を緩める。「ごめん。聞いてなかった。何、何の話」
 おれは舌打ちをして麻子から顔を背けた。麻子の表情が腹痛を我慢する子供みたいに情けなく歪んだ。縋るようにおれに寄りかかり言う。「ねえ、もう一度話してよ。わたし、ちゃんと聞くから」
 それでもおれは機嫌を損ねたままで、麻子の捨て犬のような目を見てやらない。頭の中は一つの思いでいっぱいだ。
 ちくしょう。何だって言うんだ。近頃こんなことが多い。
 誰も、おれの話を聞いてないみたいだ。

 最初は気のせいだと思った。勤めている美容室で、おれはお客の頭を洗ったり髪をカットしたりしながら会話をする。たいていはどうでもいい話。その日最初のお客は二十代半ばの髪の細い頬のこけた女。何日も飯を食ってないみたいにげっそりしているのに、目が大きくて口がよく動く。シャンプーを済ますと女性雑誌を手にとってそれを開きもしないうちから喋り出した。四歳になった息子がどうとか、友人の会社のボーナスが自分と比べてどうとか、育児休暇がどうとか。おれは適当な相槌を打ったはずだ。
「あー、でもそういうのありますって。おれの彼女とかも独立して店持ちたいってたまに言うから。そうすりゃ今のストレスが半分になるって」
 それなのにその女は蝉の抜け殻みたいにうつろな目をして鏡の中のおれを見るだけ。「ねー」の一言もない。おれは胸の内のイラつきを隠しながら次の話題を探った。女の髪は細すぎて、この上にまた熱を加えたら蒸発してなくなっちまいそうだ。
「トリートメント何使ってます」
 質問をしたのに、女は膝の上の雑誌をパラリと捲ってその紙面に目を落としている。京都かどこか、夜の寺の枝垂桜がライトアップされて光ってる。
「トリートメントは何を」
 態度はおどけて気持ちは本気で女の耳元で大きな声を出した。女はびっくりしたのか雑誌を閉じる勢いでおれを見返す。透明のストローを咥えるみたいにほんの少しだけ唇を開いて笑っていた。
「ごめん。何か言った?」
 そんなやりとりが、この日から何度も続いたんだ。

「おい、聞いてるのかよ」
 麻子の目が部屋の四隅を行ったりきたりしているから、おれは耐えかねて言った。さっきから生返事の一つもない。おれは訳のわからない焦りと苛立ちに吐き気をもよおしながら、麻子の視線を強引に遮って声を荒げた。
「何だお前。バカにしてんのか」
 麻子の前に立ち塞がってそう言うと、麻子はじっとおれの目を見た。あんまりキツい視線でおれは喉の渇きを覚える。一分間もおれを見詰めた後、引っ付いた唇を剥がすみたいにゆっくりと、麻子は口を開(あ)いた。白い喉が見える。
「コウタの声、何かよく聞こえない」
 物理的な証拠を突きつけられた殺人犯みたいに、おれは引いた。

 声が出てないわけじゃない。麻子はおれを座らせると、自分も床に置いたクッションの上に座ってまたおれを見詰めた。原因もよく分からないのに急に全身にポツポツ発疹が浮かんだ子供を見るみたいに、いろんな感情が入り混じった表情。麻子はちょっとうつむくと、しばらくしてからおれに向かって言った。
「コウタ、何か喋ってみて」
 おれは急に声を出すのが恐ろしくなって、唇の端っこを少し痙攣させた。
「何だよ。おれ、おかしくないぞ。お前がテキトーな態度してるから」
「コウタ、今喋ってるよね」
 麻子はおれの口元をじっと見詰めながら確認するように言う。おれは背中によく冷えたゼリーを流し込まれた気分だ。くしゃみを堪えるみたいに口元が歪む。
「何だよ。変なこと言ってるんじゃねえよ」
「ナンダヨ。ヘンナコト、イッテルンジャ、ネエヨ」
 ひどくゆっくりした口調で麻子がくり返した。麻子は理解できない抽象画を見たときみたいに、おれの顔を見ながらおれの顔を見ていない。
「コウタの声、音みたいに聞こえる」
 麻子がそう言った。

 おれは声を失った。
 それからの生活はひどいもんだ。やってくるお客の数は変わらないし、おれの対応も変わらないが、確実におれは病んでいった。人と話すのが辛い。いや、話すことさえできないのだ。おれは声を出すが、相手はおれの声を聞いていない。おれの顔を見てはいる。けど、おれの声は聞いてない。麻子の口数が少なくなった。一晩中テレビつけっぱなしの生活が続く。麻子の笑顔が嘘臭くなった。おれはもう笑えない。笑い声がどう聞こえるのか、知りたくない。
「ねえ、お医者さんに診てもらったら」
 麻子が捨て犬の笑顔でそう言ったときに、おれはとうとう切れた。顔を赤く染めて麻子を睨みつけたが、おれの口は悪態の一つもつけず、おれは部屋を飛び出すよりなかった。とんでもなく惨めな気分だった。これは並大抵の屈辱じゃない。背番号とユニフォームを与えられて生涯全試合にベンチ入りしたが、ただの一度も出番が回ってこなかった野球選手よりなお惨めだ。おれはどこにも居られない。声を取り戻したいと願うより強く、ここから逃げたい。
 気が付くと、おれは大通りの歩道橋の上、行き交う車のベルトコンベアを欄干に肘をついて眺めていた。立ち並ぶビルとその隙間の路地、走り抜ける車と車の隙間に灰色のコンクリートが見える。狭窄的になっている自分の姿が冷めた気持ちにエンボスみたいに浮かび上がって、手を伸ばせばリアルに掴めそうだ。車の風を切る音がブンブン羽虫みたいに唸っている。
 その時だ。おれの狭窄的な視野に、ローラーのついた靴を履いた子供の姿が映った。ビルの隙間の路地を、何かの化け物に追われてるみたいにその女児は走る。大通りに向かって、車の風を切る音に向かって、長い髪を風に靡かせて女児は突っ込む。
 おれは思わず叫んだんだ。
「           」
 振り返った女児の目と、おれの目は絶対に合った。



※涌井の創作小説です。

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