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また、木に縛りつける必要もない!なぜなら、私には大和魂の血が流れているからだ!

2019-05-12に発信した章である。

以下は前章の続きである。 
「正義と勇気の日」 
228事件が勃発して10日後の3月9日未明、国民党軍の精鋭第21師団が基隆と高雄から上陸する。
徳章の予想通り、それまで民主化を承諾していた陳儀・行政長官は、方針を翻し、事件の首謀者たちが「潜入してきた共産党分子」と「留用日本人」であったとし、弾圧に乗り出していった。
留用日本人とは、戦後も引き継ぎや技術移転等のために、乞われて台湾に残っていた日本人のことだ。 
陳儀は、彼らを騒乱の首謀者に仕立て上げたのである。
事件を鎮静化させようと奔走した徳章らも逮捕される。
国民党政府は、この事件を機にエリート層の一掃を狙い、日本統治時代の知識階層を一網打尽にしようとしたのである。 
228事件研究の第一人者、李筱峰・国立台北教育大学台湾文化研究所専任教授はこう語る。 
「228事件には、国民党がこの機会に乗じて“計画的に”台湾各地のエリートを捕らえて殺害したという一面があります。湯徳章さんをはじめ、全島各地の数多くの各界エリート名士は、いずれも3月9日からほぼ一か月間に逮捕され、殺害されています。つまり、彼らの大部分は、暴動に関わっていないにもかかわらず、計画的に"謀殺"されたのです」 
日本統治時代のエリート層の一掃―それこそが228事件の恐るべき真相だった。 
逮捕された徳章は、激しい拷問を受けた。
しかし、学生をはじめ、リーダーたちの名を決して洩らさなかった。「誰だ!おまえに武器を引き渡したのは、誰なんだ!」。

逆さ吊りで、銃床で殴りつけられ、あばら骨を折られても、徳章は誰の名前も出さなかった。 
多くの台湾人に衝撃と感動を残したのは、徳章が処刑される時だ。
無実の罪を着せられて民生緑園という公園にトラックで引き立てられてきた徳章は、目隠しも、木に縛りつけられることも拒否し、「私に目隠しをする必要も、また、木に縛りつける必要もない!なぜなら、私には大和魂の血が流れているからだ!」と叫んだ。
すべて台湾語である。
さらに、「もし、誰かに罪があるとしたら、それは私一人で十分だ!」 自分一人が罪を被って死んでいく、だから心配するな、こんなやつらに絶対に負けるな!と、徳章は民衆の魂に呼びかけたのだ。
そして、最期に台湾語ではなく「日本語」で、こう叫んだ。 
「台湾人、バンザーイ!」 
その時、銃声が轟いた。
徳章は、3発目の銃弾が眉間を貫いた時、巨木が倒れていくようにゆっくりと崩れていった。
驚きと感動で人々は言葉を失った。 
自分の命と引きかえに、台南の人々の命を救った坂井徳章弁護士の最期は、38年という世界最長の戒厳令下でも、秘かに語り継がれていく。
そして、半世紀の後、徳章は忽然と復活する。
台南市が、徳章が処刑された現場となった民生緑園を「湯徳章紀念公園」と改名し、同時に徳章の胸像を建てたのである。
さらに16年後の2014年、頼清徳・台南市長は、徳章の命日を台南市の「正義と勇気の日」に制定したのだ。 
私は、228事件と、台湾人を救うために自らを犠牲にした徳章の存在は「何を意味するのか」と思う。
228事件から70年後、台湾は、今度は国民党と戦った中国共産党の脅威に晒されている。 
中国は、2005年に「反国家分裂法」を制定している。
そこには、台湾の独立分子に対して「非平和的手段」を用いて排除することが明記されている。
台湾の自由と民主と人権が再び犯されようとしている今、日本が中心となって「日・米・台」の強固な結束を示して、中国による台湾への武力侵攻を何としても阻止しなければならない。
平和を守ることの「意味」を坂井徳章が遺した言葉と行動から、是非、知って欲しいと思う。

 

 

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