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ある一人の男の夢と挫折_3

私は、本格的に映像の仕事を始めようと、転職活動を始めます。
年齢もそこそこいっている事もあり、転職活動はなかなか思うように進みませんでしたが、30才の時に、ついにCM等のロケーションコーディネートをしている会社に転職する事になります。
ロケーションコーディネートとは、CM等の映像作品で使用するロケ場所を探し、交渉、ロケハン、監督への提案、申請、調整、撮影の立ち会い等をする仕事の事です。
意気揚々と会社に入社した私でしたが、そこで待っていたのは、想像以上のハードな仕事でした。
入って最初の1ヶ月は、肩慣らしと言う感じで、それほど厳しく指導されなかったのですが、1ヶ月が経った頃、撮影現場で、社長から怒鳴り散らされ、それ以降は、休みも2ヶ月に1日あるかないかの日々で、撮影となれば朝4時に起きて一日中動き回り、ヘトヘトになって夜帰り、その次の日からもすぐ次の案件が始まる、といった日々で、社長を始め、社員の方も厳しく(優しい人もいました)、かなりのハードな会社でした。
それだけ働いても給料は月20万円程度で、サラリーマン時代と同じような生活(全て外食で、サラリーマン時代と同じアパートに住んでいました)をしていた私は、貯金がものすごい勢いで減っていきました。
ロケーションコーディネートは、コミュニケーション能力、交渉能力、気遣いの能力、段取り能力がかなり重要な仕事なのですが、私はどれもほとんどなく、正直言うと、回りからも私自身も、コーディネーターは向いてないと思っていました。
しかし、それでも必死にもがいて頑張っていると、少しずつではありますが実力がついて、1年半位経った頃には、1件仕事を私にほぼ任せてもらえるようになっていました。
そうして初めてほぼ自分に任せてもらってやった案件が、自動車メーカーのモーターショー用映像のロケーションコーディネートでした。この案件のプロデューサーとは、その後、不思議な縁で繋がる事になります。
ロケシーションコーディネートの仕事は、かなりハードではありましたが、やりがいもあり、撮影が終わった後にはかなりの達成感を感じる事も出来ました。
その頃、私には彼女もでき、順風満帆のようにも思えたのですが、そこで、私の元々の目標であった、「映画監督になりたい」という夢が顔を出します。
ハードな仕事の中でも、隙間の時間を縫って脚本を書き、映画の学校の脚本のコンクールに出したりしていたのですが、やはりロケーションコーディネートのハードな仕事をしながら書いた脚本は完成度が低く、全く箸にも棒にもかからない、と言う感じでした。
同じ頃、あまりのハードワークが祟って、下痢が止まらなくなり、正直言うと、この仕事を続けていくのが難しいかな、と思うようになっていました。
その頃、彼女と婚約をしていて、結婚が決まっていたのですが、そのタイミングで、私は仕事を辞める事を決意します。
32才の冬でした。


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