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漠然とした不安

なにか僕の将来に対するぼんやりとした不安である。

或旧友へ送る手記

芥川龍之介は手記の中で、そう綴っている。
芥川は同手記の中で、動機をいくつか匂わせている。生活難、病苦、精神的苦痛など。


自死は太古から現代まで無くならない問題だ。自死を考えたことがない人は、きっと自死を選ぶ人の気持ちはわかりにくい。芥川は存命時から文学界のスターであった。今風で言う勝ち組か負け組かという分類をするならば、まず自他共に認める勝ち組であっただろう。現に今現在においても、文学に疎い人々にすら名を轟かせているのだから。売れない作家や、何者でもない庶民から見れば、多くをもっていた勝ち組といえる。

文豪は短命なのか

芥川龍之介や太宰治。そして樋口一葉などを見ると、文豪は暗く、常に希死念慮に苛まれながら、命を削りながらものを書くというイメージが強い。それは芥川龍之介と太宰治が強すぎるだけで、長生きした文豪の方が多い。
長生きした文豪の1人に永井荷風がいる。永井は日本文学界隈においては有名だが、やはり芥川龍之介と比べると知名度は低い。永井は芥川龍之介とは真逆である。ポジティブな性格であり、自由奔放で好きなことだけをしていた。結果79歳で孤独死する。誰にも看取られずに逝去したことから、周りの人間は永井の死に様を寂しく不幸な最期だとした。しかしそれは他人が決めることだ。永井本人にとってみれば不幸かどうかは分からない。現に皆が幸福と評した勝ち組の芥川龍之介や太宰治は自殺で亡くなっているのだから。周りのモノサシと本人のモノサシは違うのだ。

幸福感に与える影響力は、所得や学歴という条件付きの幸福感や肯定よりも、自己満足ができるかどうかによる。
周りの価値基準を介入させない。嫌なことはしない。好きな人だけと付き合い、気に入ったものだけを取り寄せ、飽きたならすぐ手放す。自分勝手な生き方かもしれないが、そちらの方が満足できるならそれが全てだ。人生など自己満足なのだから。

永井はそんな生き方をしていた。芥川より格下だと思われがちだが、自分を不幸な身だと感じるかどうかはまた別だ。しかも永井本人は周囲に対して「あっけなく死ぬだろう」と宣言していたのだ。自分でも分かっていた。そしてそれを受け入れていた。
将来に対する漠然とした不安などなかったのだろう。

芥川龍之介は名誉も才能も世帯もあったが、それは外側のものだ。条件付きの幸せというやつだろう。
生きる意味を考えだすと、それらは全て砂のような無価値な物になる。

しかし、自殺する人間としない人間の違いがまたひとつ明らかになった。
将来に対する不安だ。
かつてKagrraというビジュアル系バンドが存在した。
ボーカリストの一志はKagrraの解散後、自殺したのだ。
Kagrraが解散したから死にたくなったのかと解釈できるが、希死念慮は間違いなくKagrra活動時からあった。
歌詞に出ているのだ。

命の意味をどれほど求めても 救いの神は微笑みを浮かべるだけ


哀しくて、、、もう、、、苦しくて、、、只管に頭をかかえ眠る

月に斑雲 紫陽花に雨


いつからが過去なのいつからが未来 今ここにいるのは誰でしょう

月に斑雲 紫陽花に雨


人生の意味を考えると、人は病むようだ。
ニーチェなども虚無主義を確立し、生きる意味は無いと説いたが後に発狂している。



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