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失う方が苦しい

人生は得られないよりも、得ているものを失う方が苦しいかもしれない。

負けるというのは失うことだ。しかしそれまでの人生経験から、負けが失うことに感じない人がいたり、逆に死活問題までになったりする人がいる。

同じ1敗でも、メイウェザーが味わうのと、ハルウララが味わうのとでは苦しさが違う。
ハルウララにとっては習慣とまで言えるいつも通りの結果でも、メイウェザーにとっては死活問題だ。
不敗伝説が崩壊するのだから。

ハルウララは《勝ち》という得たものがないので、それを失う苦しさもないのだ。最初から持っていないのだから。

同じ状態でも《いつもと変わらない》のと《いつもよりなくなっている》結果だと辛く感じるのだ。

これは勝利だけではなく、人生の様々な《得ているもの》《得ていないもの》に言える。
何かが欲しかったとしても、得ていないなら失わない。失わないなら積極的に挑戦できる。
人が挑戦をしなくなる理由は、失うものができるからだ。決まって現状維持をしようとする。
見方を変えれば、得ている人というのは失うものが多いので、弱い人という側面を持っているのだ。
逆に得ているものが少なければ少ないほど、挑戦への心理的負担がない。
無敵の人という言葉で表されるくらいなので、やはり失うものがない人間は積極的に行動できる(まあ無敵の人という表現はネガティブな意味をもっているが)。

現状維持の姿勢になったところで、得ているものは必ず失う時が来る。
物なら劣化し壊れ、人なら必ず疎遠になるか死別する。
諸行無常の会者定離だ。
これは評価などといった、形がないものもそうだ。必ず失う。
そして失う時は、それに対して執着が強ければ強いほど苦痛を伴う。
若さゆえの美貌でチヤホヤされていた人間は、老いに対してものすごく抵抗があるだろう。
しかし子供のころから老け顔だった場合、歳をとっても体力低下ぐらいしか失うものがないので、若さプラスで美貌を持っていた人間に比べて老いに対する抵抗も、美貌を持った人に比べて少ないだろう。
そして先天的に目が見えない人と、後天的に目が見えなくなった人でもやはり精神的なダメージが違うだろう。

僕の想像だが、芸能人や人脈が多い人は精神的に辛そうだ。
芸能人は名声も金も得る。
なのでその地位を失うと、状態としてはなんの名声もなく給料も半分以下になる状態になるのだが、一般の人間からすると当たり前だ。得ても失ってもいない。しかし芸能人は得ている状態を知っているので、不幸を感じてしまう。人脈が広い人は、人が周りにいる状態がデフォルトなので、失うと辛さに耐えられないだろう。
最初から孤独だった人間と、失った人間とではダメージが違う。NARUTOに出てくるサスケの気持ちは分かる。
生活水準を上げると戻せないということに通ずる。
得ているものを当たり前だと思っていて、かつ依存しているほど苦痛がある。
得ている量が多いほど、反動で辛さも増す。押す波引く波のような関係だ。

中途半端な成功体験

僕も現状に不幸を感じることがある。
というのも、平凡な自分の人生にも成功体験があるのだ。
人生で全く成功体験がないのは逆に幸せだと思う。愛情を注がれたことがないなら、憎悪を向けられてもなんとも思わないだろうし、友達が全くできたことがないなら、孤独に悩むこともない。
成功体験が自分を苦しめているとも言えるし、それはきっと事実なのだ。

それは僕がやってきたゲームにも言えた。
やればやるほど上手くなるのだ。それが楽しくて執着してしまっていた。
やってもやっても上手くいかないならやめている。しかし上手くいかないことは当たり前なので、イライラしたり不満を感じたりすることもない。
中途半端にクリアしたり、勝ったり、褒められるから続けたくなる。
友達も中途半端にいた。
中途半端に仲良くなり、中途半端に尊敬され、中途半端に意思疎通ができた。しかしこれも成功体験になってしまったのだ。今は失っているが、やはり有った時が基準になり、恋しくなることはある。物心ついた時から現在まで全く友達がいなければ、それが基準になり、当たり前になるため、苦痛は全く感じないだろう。

辛いこともたくさんあったが、学生時代に戻れるなら戻る。この心理になるということは、僕は学校生活において楽しいことも沢山あったということだろう。楽しいということはことは成功体験ということだ。思い当たる節は沢山ある。満点のテスト。教師や友達からの肯定。そして運動やイベントでの活躍。
逆にこれらが無いなら成功体験も無いということになる。そんな学校生活は悲しいが、得ていないなら失っているという心情にもならないだろう。本人からしたらそれが当たり前なのだから。人生なんて主観だ。
失うくらいなら最初から得ていない方がマシかもしれない
親や友達、ペットの死が悲しいのは、何かしらを《得ている》と思っているから悲しいのだ。赤の他人や野良猫の死はそこまで悲しくならないだろう。
最初から親や友達がいなければ、別れの苦しみも味わうことがない。
子供も産まなければ、夭折ようせつなどで悲しむことにはならないだろう。

ゲームのデータが消えて悲しくなるのは、ゲーム内で《得ている》ものがあったからだろう。初期化されたということは、元の状態に戻っただけなのだが、自分の感覚としては、成功体験を《失った》のだから損をした気分になる。

ゲームのデータが成功体験にならない(自分が得ていないと感じるものや楽しくないもの)ものならば、別に初期化されたところで何とも思わないだろう。
レベルが0または所持アイテムが皆無のRPG。勝ち数、勝率共に0の対戦ゲーム。そしてバッドステータスばかりの状況や、データが消えても消えなくても初期状態と変わらないならば、たとえデータが全部消えたとしても、損した気分にはならないはず。付加価値というやつだろうか。
全ての苦しみは得ることから始まっている

noteもそうだ。
始めてから今まで、全く《スキ》をされず、フォロワーも増えないならば、別に何も感じない。それが当たり前の状態だから。
しかし《スキ》の味を知ってしまった。ピークは30ほどあった。
一度そんな成功体験を味わうとそれ以下のスキ数が物足りなくなってしまう。
10とか20とかでも足りない。

僕のそんな生ぬるい成功体験ですら損をした気分になるのだから、一発屋芸人なんかはもっと損をした気分なことだろう。僕で言うと一度だけ10万いいねくらい貰った感覚なのだろうか。
瞬間的だが通知が止まらず、肯定の嵐で通知欄が埋め尽くされる。
それまでスキなんて全く貰っていない人間が一度でもそんな成功を体験すると、絶対に忘れられない。強烈な思い出になるのだ。そしてまた味わいたいと思ってしまう。脳みそが依存症のように求めてしまう。というか依存症と同じ原理だろう。
従来の成功体験では満足できず、より強い成功体験を求めるのだ。覚せい剤の使用量が増えていくのと同じだろう。中途半端かどうかに限らず成功体験とは呪いなのかもしれない

生まれて物心ついた頃から家庭でも学校でも否定され、友達もできず、勉強も0点で免許も落ち、高校受験も失敗したならば、それが当たり前になるため、特に苦痛は感じないのだろうか。
人は誰かに愛情を注いでもらうことで、自らも愛情を模倣し、誰かに向けるらしい。
マンガ北斗の拳に出てくるサウザーの台詞に「愛ゆえに人は苦しまなければならぬ」という台詞がある。
ならば愛を知らなければ苦しみもないのだろうか。
全く人に優しくされない人生なら、優しくされないことは当たり前になり、精神的に一周回って強くなるのではないか?
原因は分からないが否定的に接される。黒人差別のように。当たり前になるか、反社会的になるかのどちらかだろう。

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