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可謬主義

可謬主義(かびゅうしゅぎ)とは、「知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる」という哲学上の学説です。パースによって初めて提唱されました。
自分の主張は絶対ではない
思考停止にならないよう戒める
確実な経験的知識の獲得は不可能である
人間の誤りやすさを強調する
経験的知識は、さらに観察をすることによって修正されうる

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要は100%正しい知識など存在しないということだ。
今正論とされている理論も、10年後は間違っているかもしれないということ。
ひと昔前では常識だった「暗いところで本を読むと目が悪くなる」という理論は現在否定されている。


ジョン・デューイ

1859~1952
アメリカの哲学者。教育者。
日本に来て帝国大学で講義をしたこともある。
小さい頃から読書をしていて成績は優秀だったが、授業は退屈に感じていた。
一度小学校の教師職に就職したが、会わないと感じた。その時トーリーと出会い哲学を教わる。
論文を提出すると評価されたためジョンズ・ホプキンス大学に進む。アメリカ哲学の最先端大学だ。
その後シカゴ大学へ行き、有名になった後はコロンビア大学に行く。

思想

人間が認知出来ていないものは否定できない。
例えば地球上の生物を現段階で100%見つけていると思っていても、いまだ新種が見つかる。そうなると今までの100%コンプリート認識は間違っていたということになる。
脳にも言える。脳は2%しか判明していないと言われているが、100%判明している状態がどういう状態かが分からないので、「2%は判明している!」というのも正しくないかもしれない。というか正しくない可能性の方が高い。
2%だと思っていたけど、実は0.002%にも満たないかもしれない。
常識を疑うのだ。
現時点で観測されているものは確実かもしれないが、観測されていないものが無いというのは神様でない限り言い切れない。これがデューイの思想。可謬主義だ。
そして知識はあくまで問題を解決するための道具に過ぎないとした。解決出来ればそれは道具が役に立っただけということだ。
道具というのは環境や状況に合わせて変える必要がある。
魚は虫あみで獲れないので、釣竿を垂らして釣るのが適切だ。髭剃りはハサミでやるより、カミソリを使った方がやりやすい。
知識は道具に過ぎず、その場その場で臨機応変に変えていく必要があるという思想を、道具主義という。
コロナ禍のような新しい事態に陥ると、それまでの知識は全く役に立たなくなるので、常に改善していく必要がある。
しかし人間は習慣、つまりルーティーンで生きているところがあるため、知識や常識を疑うことなどはあまり考えない。
創造的知性が必要になってくる。
食欲が出たとして、食べようとするのは、自分が食べ物だと《認識した》物だ。
口に入れられる全ての物を食べ物だとしてバクバク食べることはない。
日本では寿司として生魚を食べるが、海外からすると奇妙に映る。
なにも国家間だけではない。
日本でも地域によっては鯨を食べたりイナゴを食べたり蜂の子を食べたりイノシシを食べたりする。これらも他の地域からすると奇妙に映る。
もっと言うと個人間でもそれが起こる。僕はトコロテンやタコを食べる人はとんでもないと思う。
だがイナゴの佃煮には少し興味がある。興味を持ったキッカケは、イナゴを食べている人がいるという事実を知ったからだ。その事実が無ければイナゴを食べ物だと認識しかけることはまず無かっただろう。衝動性が習慣に訴えかけてくる。
そして実行するために計画を立てるのだ。
このように、日常生活でも知識という道具は更新アップデートされてゆく。
自分の周りに刺激を受けて自分を作り変えていくことが人間の性質だ。主に人間はコミュニケーションが刺激になる。これは本能に支配された動物にはできないことだ。

この《習慣の創造と破壊》は社会規模で起きる。
文化とは経験の共有で起こる。「イナゴ食ったけど美味かったなぁ!」「うんうん」
他者の行動から衝動性のツボを押されて自分もやりたくなる。「なんかイナゴって美味いらしいよ!?」「俺もイナゴ食ってみよっかな」
個人間の趣向が広がり、文化になる。
俺でいうトコロテンのように、周りが食べていても自分にとって美味く感じないものや、そもそも見た目の時点で受け付けない場合などで衝動性が起こらない場合もあるが、それが多様性なのだ。
《みんな好きな物》《みんな嫌いな物》というのも不自然な話だ。感性で言うところの
《誰も傷つけないお笑い》のような不自然さだ。思想が一致している状態は多様性という本質からしてはありえないことである。
刺激や趣向は多種多様でいい。そうすれば自分の創造的知性を発揮できるかもしれない機会が多くなる。
全員が同じだと間違いなく社会の衰退を招く。
そして創造的知性のキッカケはインフルエンサーが民衆に対して一方的に与えるだけではない。相互に刺激をし合っているのだ。
何が正解かが分かりきっているならば、社会に属した大衆は何が起きようが正解とされる選択肢を選び続ける。そしてそれは常に良い結果を生む。
しかし正解それには疑いうる余地が常に付き纏う。こぼれ落ちる人が出てきたり、どこかで行き止まりになって通用しなくなったりと問題が発生するのだ。
少なくとも完璧なシステムは人類史上無いし、一時的に正解に見えても時代や環境、長い目で見ると不正解になっていくシステムだった。社会主義などがそうだった。だからといって資本主義社会も持続可能かは怪しいのだ。

資本主義は崖っぷちだが、社会主義はその先を行っている。

そんな時、何かを攻略しようとした際は10人のコミュニティより5000人のコミュニティの方が多彩な攻略法を編み出せたりする。考え方や趣好が多種多様だからだ。
10人の身内で出した真実より、5000人の町人で出した真実の結論の方が正確だ。もちろん完璧は常に疑いうる。
しかしコミュニティの規模が大きくなるほど、正確性は増すというのは確かだ。
10人の時は精度が2%だとして、5000人なら60%。それでも60%止まりなのだ。ここで「町人5000人が満足しているからこの理論は100%正解だね!」となって結論を出し切ってしまうとそこで終わるのだ。
マズイのは正解の精度が低いことではない。思考停止して価値観がガチガチに固まるのがマズイのだ。
常に疑い、改善の余地を考えるのがイイ。そして5000人規模の町人から、50万人規模の県民で議論をする。その結果町人たちで出した100%の結論が、実は60%であり、自分たちの理論は不完全だったと思えば「なんか認識が違う」「積み上げたことは無駄になる」とコンコルド心理や認知的不協和により抵抗が出てくる。そこで一度全て捨てれるかどうかだ。捨てられれば次に積み上がる正解の精度は80%になったりする。
捨てられないと北朝鮮やカルト宗教のような狭い世界の価値観に囚われて閉鎖的になっていくことで、周りの開放的な多人数から置いていかれる。エコーチェンバーというやつだ。意見が偏り、正解からは程遠い極端なものになる。社会主義やコンコルド、アスベスト、神風特攻といった、長い目で見ると正解でないジリ貧ものを変えるのは重要だ。それまで積み上げ、信じてきた60%の正解は全てパァだが、捨てることで次は80%の正解を手にできる可能性が出てくる。捨てなければジリ貧だ。

開放的になり、数が多いほど正確性は増すが、同時に多様性も増す。多様性が増すとゴタゴタも増す。これは確かに混乱、対立や戦争に繋がるが、民主主義社会に変革が起きにくいのはそのようなゴタゴタ性質があるからだ。
都合や価値観は色々なものになるというのは危険や改革、混乱といった良し悪しの可能性を様々孕んでいる。
そして精度が上がり、理論はほぼ100%正解になり、単一になったとしても、思想や価値観は単一にできない。
《戦争が起こっている理由》を正確性によって突き止める事ができても
「戦争をやめよう」
という価値観を統一することはできないのだ。

ダークホースパターン

集団の数が多くなるほど正解への精度は上がる。なので正解かどうかは多数決で決める。《多数派が正義》が常識となっている。 
というか常識という概念自体が多数派と直結している。

少数派に正解が紛れていることもあるのだ。
かつて天文学の分野では、天動説が常識だった。つまりこの思想は多数派だったワケだ。
地動説を支持する人間は少数派だったため、当時では間違い扱いだったが、その後地動説は正しいとされた。
相対性理論などもそうだろう。アインシュタインにしか出せなかった少数オブ少数の正解だ。

なので少数派であろうが行動タイプが他の大多数と違うというのは、正解観察試行のバリエーションを1つ増やしているということなので、財産なのだ。
精度を上げるには数が必要だと前述したが、正確には《多彩な行動属性を持っている》ほど精度が上がるのだ。
同じような思想、価値観、信条を持っているのならば、50人いようと5億人いようと正解への観察角度は増えないため正解への精度は変わらない。同じ考えだけだと身内だろうが町だろうが県だろうが導き出す正解の精度は2%から上がらない。
北朝鮮や北センチネル島が証明している。あの思想も行動も排他的で単一的な場所たちに技術改革なんてあったものじゃないだろう。
北センチネル島の住民はおそらく、外部からの侵入を拒んでいるだけではなく、内部の掟も厳しいのではないかと僕は予想している。
独自の宗教や信仰が根付き、思想や行動が制限されているのかもしれない。
進撃の巨人に出てくる、壁の中の住人のように「外には悪魔がいる」のようなことを教えられている可能性もある。
海の外に出ようとする人間は抹殺するという、考えや行動の多様さを許さない排他性、単一強制思想を島のオサが持っているのかもしれない。
北朝鮮がそうだからだ。
北朝鮮は比較的観光客を受け入れたり、貿易を行っているが、娯楽などには厳しく、また、国外から出ようとする者には容赦しない。
北センチネル島は北朝鮮をギュッと圧縮した島なのかもしれない。というか、全く情報がない分、北朝鮮より厳しいのかもしれない。

思想2

話が大きく逸れた。
デューイの思想に戻る。
学校で生徒を受動的にさせて、「これが正しい!」という教育は、産業革命前の教育だとデューイは説いた。
魚を釣るために釣竿を与えるのではなく、魚の魅力を教えるのだ。「食べる事もできるし、飼う事もできる」
その為には手段をひとつに決めつけてはいけない。
ましてや魚自体を黙って与えるというのはもってのほかだ。
食べたいという生徒がいるなら、魚の性質や生息地、他に狙っている人間を教えればいい。
選択肢やヒントを与えるのだ。選択肢やを潰すので、容易に正解を与えてはならない。大人の正解は子供の創造的知性を潰すことになる。

最期

世界的に有名になったデューイは、来日後、中国、トルコとメキシコ、ソ連からも招待された。
アメリカ大学教授連合を設立して初代総長になったり、婦人参政権運動に参加した。
世界恐慌が起これば、自身の理論を見直す謙虚さもあった。
92歳で死去。


参考サイト


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