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[エストニアの小説] 第4話 #3 渡し守ヨーナ(全15回・火金更新) 

#2 アン・マリ
…..雷が鳴るたびに、恐がってまわりを見まわし、身を縮めて口もとに手を当てた。しかし雷鳴の間には、陽気に生き生きと早口で、あれやこれやと話しつづけた。頭に巻いていたスカーフを外すと、ひざの上に置いた。アン・マリの輝くブロンドの髪は濡れて束になり、肩にかかっていた。くちびるは白い顔に縁どられて、真っ赤なトマトのようだった。

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 ニペルナーティはアン・マリを見つめ、戸惑いながらこう尋ねた。
 「だんなさんのヤイロスだけど、畑で働いているの?」
 アン・マリはうろたえて、顔を背けた。
 「こういう質問は嫌いなんだ」と不機嫌そうに答えた。「あいつはいない、そういうこと。2年と3ヶ月たつけど、あと9ヶ月たたないと帰ってこない。それだけ。これ以上言うことはない」
 そう言うとにっこり笑って男を見た。親密さが戻ってきた。

 「あんた、ダーベッ・ヨーナみたいに面白いよ」とアン・マリ。「ダーベッ・ヨーナは知ってるよね? あいつはここの渡し守なんだ、あの小屋に住んでる。見てごらん、居酒屋の向かい側だよ。まだ若い、20歳。10歳のときに孤児になって、そのときから渡し舟を走らせてる。父親が事故で死んでから、孤児になった。父親はたいした悪党でね。大きくて浅黒くて毛深くて、ライオンみたいな頭でさ、渡し舟から声をあげると雷みたいなんだ。あのライオン頭のヨーナ爺を怖がらない者はいなかった。誰も渡し舟で川を渡ろうとしなかった。そうできるんなら、みんな家にいたいと思った。だけど町に行くとき、帰ってくるときは、みんな一緒に長い隊列をつくって、そのときだけ渡し舟に近づいた。ところがあのヨーナ爺がジプシーの女の子を好きになって、蚊みたいにつきまとって諦めようとしなかった。みんなはこう言った。『おいヨーナ爺、やめろ、道理をわきまえろ、冷静になれって。あの娘に何をしようってんだ?』 だけどあいつは追いかけるのをやめなかった、道理をわきまえなかった、クマみたいに吠えて向かってきた。で、こう言った。『おまえらには関係ない、おまえらの娘じゃない、俺は自分でやることをやる』 それで一度、その娘が川を渡りたいといったとき、ヨーナ爺はその娘を渡し舟に乗せた。そしてこんなことを口にした。『聞いてくれ、娘さん、神様に答えるときみたいに、俺に答えてほしい。俺と一緒に生きたいか、それとも死にたいか?』 こう言ったんだ。だけどその娘はただ笑っただけ、怖がったり不安になったりすることはなかった。ただ笑って、真面目にとらなかった。ところが渡し舟が川の真ん中にくると、ヨーナ爺はつないであったロープを切ったから、舟は滝に向かっていった。娘は叫び声をあげ助けを呼んだけど、何もできることはなかった。その2、3日後、二人の遺体がずっと下流の岸辺で見つかった。川だってこんなもん迷惑なだけだった」

 「その事故以来、ターベッ・ヨーナは渡し守をやってる。だけど父親ほどには向いてないんだ。あいつは好奇心旺盛で、あれこれ質問することなしには乗せてやらない。自分は誰か、どこから来たか、どこへ行くのか、何のためか、仕事は何をしてるか、本当に家にいるわけにはいかないのか、馬は充分食ったり飲んだりしてるか。で、すべての質問にちゃんとした答えをもらったら、背を向けて、歌を口ずさんで、渡し舟のロープを引く。もらった答えには何の興味もないみたいにしてね。ちょっとした世間話をしただけとでもいうようにさ。ところがターベッ・ヨーナは歌うことが好きで、自分の小屋の窓辺にすわって朝も夜も歌ってることがある。誰もこいつに歌を教えたことはない、どこからメロディや歌詞を拾ってきたか、神のみぞ知るだ。鳥みたいに、生まれたときから知ってるのさ。ある結婚パーティで、あいつは三日間朝も夜も歌いつづけた。客がみんな帰って、その家の者が休もうとしてあいつに言った。『もう歌うのをやめて、ターベッ・ヨーナ、もうたくさん!』 それでやっとあいつは目が覚めたみたいになって、『そりゃがっかりだな。これからってところなんだが』 しかしヨーナは歌いはじめると、何も聞こえなくなる。渡し舟に乗ろうと客が川の反対側であいつを呼びつづけてるのに、何も聞こえてない。客たちが手を振ってるのを見てるけど、呼んでるのが聞こえてないんだ。それでもめごとになって、あいつは何だとがなりたてられる。ターベッ・ヨーナが嫌われてるのはそのせいだ。あいつは十字架を背負っていて、たいした重荷を抱えてると言われてる。ヨーナをありがたがるのはクープだけ、客はみんな渡し守を待ちながら、いらいらして居酒屋に入ってビールを2、3本飲んでいく。だから町で祭りがあるとき、客がたくさん集まってくるときには、あたしはビールやウォッカをクープのところから持っていって、ヨーナに飲ますんだ。あいつに飲ませて歌わせるのさ! そうするとクープも夏の臨時収入が得られるってわけ」

 「いまは渡しに乗る人はあまりいない、みんな疫病みたいな渡し舟は避けるんだ。仕方がないときだけ渡し舟に乗る。だからここには人があまり来ない。いったい誰が渡し舟に乗りたいかってこと。たまにトビハネ・ヤーンが渡し舟のところに走っていくことがある。立ち止まってヒヒーンって鳴いて、川の中を覗いてびっくりして、地面をもどかしそうに蹴って、またびっくりしたみたいに鼻を鳴らして走り去っていく」

 少しずつ雨は弱まっていった。土砂降りは足ばやに遠のいていった。雷は遠くでしか聞こえない。稲光ももうない。いまはポツポツとした雨が地面で跳ね返るのみ。水たまりが湯気をあげ、靄(もや)が立ち込めている。2、3時間前にはスイレン、ミクリ、葦の根元の間をチョロチョロしていたカーブ川が、いまはうねりとなって大きな流れをつくっている。滝は恐ろしいほどに激しく水を打ち、水の塊を叩き落としている。風はもう声を潜めている。疲れ果てた犬のように、しゃがれた声ですすり泣くように嵐の後を追いかけていった。アン・マリは髪をとかしはじめた。

 「あんたはどこから来たの? で、どこに行こうとしてるの?」 アン・マリはピンを口に挟んで訊いた。「あんたみたいな人は、この辺で見たことがないね。ずっと遠くから来たんだね。ツィターしか持ってないし、結婚式か何かのパーティででも弾くの? それともツィターはただ持ってるだけで、逃げた馬か雄牛とか子豚でも探しにきたわけ?」

 アン・マリは笑顔を向け、頭にスカーフを巻いた。
 「あたしたちはいつもこう言ってる。何かなくなると、人はすぐさまそれを探しにここにやって来る。お偉がたがあちこちかぎまわるんだ、狐でも狩るようにね。だけど夏にここに来ても無駄なだけ。あたしたちは巣穴に隠れるネズミみたいに暮らしてる。男たちだって家にはいない。あんたも誰かを追ってるんじゃないの?」
 ニペルナーティは両手を挙げた。
 「いや、楽しいから歩いてるだけ、何かここに用事があるわけじゃない。また出ていくよ」
 そう言ってにっこり笑うと、アン・マリの腰に両手をまわしてこう訊いた。きみはここに居るように言ってるのかな。うんそうだな、きみは親切そうだし、きみのところに2、3日いることにするかな。そうすればこのツィターを聞かせてあげられる」
 ニペルナーティはツィターの下のところを自慢げにポンポンと指先で叩いた。
 ところがアン・マリはこの男を押しやった。 
 「他の男はいらないんだ。あたしにはもう一人いる」
 「クープ?」
 「ちがう、ヤイロスだ」
 「でもヤイロスは馬を盗んで、あと9ヶ月は出てこれないんだろ? もっと長くかかるかもしれないしね。そういう男は他にも罪を負ってることがある」
 アン・マリは腹をたててニペルナーティを見た。
 アン・マリの顔が興奮で赤くなった。口をすぼめ、イラついているようだった。そして納屋の入り口近くにいってすわり、空を見上げた。灰色の空に、青い線と点の裂け目が出来はじめていた。雨は去った。ポツポツと残り雨がしたたり落ちるのみ。遠くの山々、緑の草原、松やトウヒの木のてっぺんはもう太陽の光で輝いている。雲の影が湿地の上を馬乗りが競争でもするように横切っていく。これが最後と細い流れが丘の斜面を流れていき、ニョロニョロ走りながらヘビの尻尾みたいに乾いていく。鳥たちはあちこちでもう鳴き声を上げ始めていた。赤い尻尾のシロビタイジョウビタキが声を高め、キタヤナギムシクイは楽しげにチュンチュンチュン、レモン色のキオアジは森の上を旋回していた。

 「そんなの嘘だよ」 アン・マリは腹をたてた。「ヤイロスが刑務所にいるなんて、言ってないから。どこかのお喋りがあんたに言ったんだろ? それにもし刑務所にいたとしても、馬泥棒じゃない。いや、悪魔だってヤイロスの馬を見つけられやしない。そういう男じゃないんだ。湿地から馬のいななきが聞こえても、姿は見えない。ヤイロスは自分が何をやってるか知ってた、マーラ湿地を知っていた。あいつはここで育ったから、どの道も草地も隅々まで知ってるし、クサリヘビみたいに草の下に隠れることができる。あいつが連れ去られたのは全然違うことなんだ。そのことを話す必要はない。だけどあいつはもうすぐ戻ってくる。そうすると他の男連中は警戒するんだ」
 アン・マリは笑みを浮かべて得意げに言った。
 「クープもそうなの?」とニペルナーティ。
 「いや、どうして?」 アン・マリが訊き返した。「クープがヤイロスを怖がる理由なんかない、二人は友だちなんだから」
 アン・マリは立ち上がると、手早く服を整えた。
 「見てごらんよ、いい降りだったね」と嬉しそうなアン・マリ。「マーラ湿地が水をたたえた湖になった。ヨーナはきっと歌い出すだろうね。太陽にあいつの喉はすっかりやられちゃったからね」
 アン・マリはニペルナーティをからかうように見て、こう言った。「さてと、じゃあ、またね!」
 ピョンピョンと跳ねるようにして、アン・マリは道に出ていった。雨水と泥が足もとで跳ねていた。濡れたスカートの端をつかむと、楽しげに水たまりを飛び超えながら、カーバの居酒屋に向かって走っていった。

 「アン・マリ!」 ニペルナーティが後ろから声をかけた。
 アン・マリは一瞬振り返ると笑顔を見せたが、そのまま跳ねて行ってしまった。角を曲がると、カバノキやヤナギ、ハンノキの中に姿を消した。陽気な笑い声だけが、聞こえてくるのみ。
 「変な子だ」とニペルナーティは不満げだった。「なんであんなに急いでいるのか。もうちょっとここにいればいいのに。急ぐことはないだろ。わたしがツィターを弾いてあげたのに。ヨーナの歌と比べてごらんよ。あの子は興味がないんだ、お高い子だ。ヤイロスとクープのことしか誉めない、あいつらはゴロツキなのに。で、そそくさと帰ってしまった。あの子の足はお日様に白く輝いていた、顔は笑いに満ちていた」

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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