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[エストニアの小説] 第4話 #4 マハラジャの娘(全15回・火金更新)

前回 #3 渡し守ヨーナ
……「変な子だ」とニペルナーティは不満げだった。「なんであんなに急いでいるのか。もうちょっとここにいればいいのに。急ぐことはないだろ。わたしがツィターを弾いてあげたのに。ヨーナの歌と比べてごらんよ。あの子は興味がないんだ、お高い子だ。ヤイロスとクープのことしか誉めない、あいつらはゴロツキなのに。で、そそくさと帰ってしまった。あの子の足はお日様に白く輝いていた、顔は笑いに満ちていた」

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 ニペルナーティは上着を脱ぐと、広げて乾かした。
 太陽はさんさんと輝いていた。雲の切れ端が二つ三つ、仲間の群れを追う子羊のように流れていった。鳥たちが眠りから目覚めたように鳴きはじめ、木々や藪の中は熱く激しい歌声に満たされた。互いにピーピー、チュンチュン、フーフーと声を掛け合い、全身で喜びに震え、胸をときめかせていた。大きな雨粒が真珠のように、あらゆる葉っぱ、花の上で一つまた一つと輝いている。芝はぐっしょりと濡れ、瑞々しく、青々として、一陣の風が吹けば、犬が水から上がってきたみたいにそこら中に水滴を撒き散らした。

 太陽が沈みはじめた。
 ニペルナーティはしばらくじっと立ちどまり、それから上着を手に取り、紐をかけたツィターを肩からぶら下げ、森に向かって急ぎ足で歩いていった。
 いやいや、ここに留まろうというのではない。あばたのアン・マリだってそうは頼まなかった、ほんのちょっとの間でさえもだ。変な人たちがここにはいる。ここの人たちがどんなことをして暮らしてるか、神のみぞ知るだ。ものを盗み、歌い、刑務所に行き、ベリーを摘みに雷の鳴る中、森へ行き、そうしたいときに、渡し舟で滝に向かい、滝を見て感嘆する。
 アン・マリはなんであんなに高慢なんだ?
 どうして自分にツィターを弾かせてくれなかったんだ?
 いや、あの子は明らかに興味がないんだ。誰も必要としていないんだ。まるで自分があの子に愛を請うていたみたいじゃないか。自分はただ、ちょっとの間すわって、ツィターを爪弾いて、この暑く真昼のような白夜というものについて、あらゆる神経が熱い金床の上に放り投げられたみたいな、何とも言いようのない不安に満ちた、奇妙な緊張感について話したかっただけなのに。
 うん、あのライオン頭のヨーナ爺はなかなかの男だ。ロープを切って、滝の下に行くとは。
 ヤーニハンスの森に着くと、ニペルナーティはパッと後ろを振り返った。
 あの滝をすぐそばで見なくては!
 長い距離を歩いて、ニペルナーティはカーバの滝に着いて、腰をおろした。沈む夕日の中で滝の水は真っ赤に輝いていた。石灰石の壁を流れ落ち、泡立ち、轟音たてていた。跳ねた水はピンクに染まり、日が落ちると色は薄まり、灰色になった。滝の下では、水が旋回し、トロトロと動き、よく肥えた動物のようにおとなしくなっていった。

 それに空を見れば、輝いている、特別な輝き、乳白色の輝きだ。
 と、突然、ニペルナーティはぐっと背をのばした。
 カーバの居酒屋に向けて、この男は急ぎ足で歩き出した。
 夜は静けさを増し、息詰まるような暑さで、空は白く輝いている。星がここそこでチラチラと光を放っている。錆色の満月が森から顔を出しはじめた。

 居酒屋の背後にはカバノキやセイヨウトネリコの木がパラパラと生え、小さな傾いた納屋があり、その苔の生えた屋根は、藁の山とそこに生えたイラクサのせいで地面に届くほどだった。大きなゴボウの藪が入り口の両側に生えていた。少し離れた草地は、野生の白いローズマリーの花でいっぱいだった。
 ニペルナーティは納屋に近づくと、耳を澄ませ、ドアを叩いた。
 「アン・マリ、可愛い人、聞こえるかい?」とニペルナーティ。「わたしだよ、ツィターを持った男だ。嵐のときに藁小屋で一緒だった男だよ、覚えてるだろう? クープやヨーナやトビハネ・ヤーンや、馬を盗んで刑務所に入ってる、君の旦那さんヤイロスのことを話してくれただろ。お邪魔かな。わたしはここを出ていく、もう出て行こうとしてるんだ。でもアン・マリはもうさっきみたいに怒ってないだろうし、ちょっとの間、中に入ってと言うんじゃないかと思ってね。もちろんすぐじゃなくてもいい、今日とか明日じゃなくて、あさってとも言わない。いつか、ちょっと後のことだ。まあ、1週間とか2週間とかね。君がわたしに少し慣れて、わたしのことに興味を向けたときでいい。だけど今日は、少しの間ここに座ってちょっとした話をさせくれないか。君に少しでも親切心があるなら、ベッドをドアのそばに寄せて、わたしの声が聞こえるようにしてほしい」

 ニペルナーティはツィターを岩に立てかけ、額の汗をふくと、入口のそばに腰を降ろした。
 「夜なのに暑いね。すごく暑くて、明るい。夕日が沈むのを見て、背を向けたとたん、空の反対側ではもう、火の車がギラギラしている。夜は来たのか、来なかったのか。それで気分が悪くなって不安いっぱいになって、病気の人みたいに歩きまわって、落ち着く場所を見つけられない。眠ることもできず、木の上の鳥みたいになる」
 「わたしはここに来たよ、アン・マリ、何も君に求めてはいない。何もだ。だけど誰かがわたしのことを苔の生えた石みたいに、道の土埃みたいに、腐った木の根っこみたいに無視して行き過ぎたと考えると、居ても立っても居られない。目もくれず、通り過ぎればね。これって酷いことじゃないかな、アン・マリ。だからわたしは声をかけている、声をかけて話をしている。どうしてなのか、神様はご存知だ。おそらくわたしも一人の男だとわかる。わたしは息をし、苦しみ、夏の日の美しさに喜びを感じる」
 「どうしてわたしが君を愛してると言えないことがあろう。君は愛らしく、美しくて、世界中の人々が向日葵(ひまわり)みたいになる、とね。その人たちは君にだけ目を向ける、太陽だからだ。わたしはいつも、人々が聞きたいだろうことを話している。人は我慢することなく、本当のことを言うべきなんだ。でもわたしにはできない、恥ずかしいことだけれど。どう言ったらいいのか、真実を。アン・マリ、歪(ゆが)んだ女だ、不道徳な人だ、夫は刑務所にいて、クープという男と暮らしてる。彼女はやつを誘って森にベリーを摘みに行くが、日射病になって藪のそばで気を失う。その後、ヨーナにビールやウォッカを飲ませて歌わせたら、何が起きるか、誰が知ろう。こんな話に君はイラつくだろうし、君とわたしのどちらにも何もいいことはない。嘘をついた方がいい。こう言うのはどうだ。湿地からやって来たアン・マリはわたしが出会ったそのときから、最初の一目で、わたしを運のない男だと思う。そして君は笑顔を見せて、わたしを優しく見て、運のないわたしに好意を見せる」
 「大きな雲が一つ、森の上を流れていくのが見えるだろう。軍隊の行進みたいに目の前にやって来る。その雲はもう白くない、縁がピンクになって輝いている。朝は近い。暖炉の火が赤く燃えはじめる。ジョウビタキがあちこちでさえずり始める。アメリカコガラが楽しげに声をあげる。いろんな虫やカブトムシが藁の上を歩き出す。夜は終わった。一瞬の夜が終わったんだ。おととい、わたしが枝を広げたオークの木の下で寝ていたら、奇妙な光景を見たんだ。すごくリアルで、それは本物だった。実際のところ、幻ではなかった、本当にあったことなんだ。わたしが枝を広げたオークの木の下で見たことは、本当に起きたことなんだ」

 「陸を越え海を越え、遠い遠いところに、名の知られたマハラジャ、カプールタラーの王子が住んでいた。君も聞いたことあるだろう。大きな宮殿をもち、数えきれないほどの奴隷がいて、その人たちは、働きアリみたいに世界のあちこちから宝物を運び込んでくる。富や財宝が、山や森を流れる川のように王子の貯蔵庫に流れてくる。そこには真珠やダイアモンドが山積みされる。この辺の沼地の芝土みたいにね。あー、アン・マリ、世間知らずの君がこの貴重な鉱石を見たら、目も見えず口もきけなくなる。財宝から、魔法の花が開花するみたいに、まばゆい光が放たれている。そしてカプールタラーのマハラジャには、エネレレという名の娘がいた。セイヨウユキワリソウが花を咲かせたみたいな、小さくて繊細な人だった。彼女が歩き、踊り、スキップすると、月の光のような真珠のネックレスが胸のところで揺れた。ところがエネレレは突然、病気になってしまった。その日から、王子は娘の笑い声も楽しげなおしゃべりも聞けなくなった。可哀そうなエネレレは横たわり、冷たくなってじっと動かなかった。誰も彼女を治すことができない、誰もこの病気を治療する方法を知らない。国中の屈指の医者たちがやって来て、恐る恐るベッドのまわりを歩き、不安げに髪をかきむしり、神経をとがらせ、白く長いあご髭の先を口元にやった」

 「王子は悲しみで倒れ、何も食べず、飲まず、枕に頭を沈めることなく、怒りと絶望で目を雄牛のように赤くした。そして自国の著名人600人を罰として、さらに他の者への警告として打ち首にした。王子は壮大な祈祷を行なったが、ご利益はなかった。小さなセイヨウユキワリソウのエネレレは、冷たく、動かず、横たわったまま。そして悲しみの果てに、カプールタラーのマハラジャは国中におふれを出した。娘の病気を癒したものは、王座と財宝を受け継ぎ、エネレレを恩恵として手にする」
 「ほら見てごらん、白いゾウたちに引かれた長いキャラバンが続々とやって来る。白と黒のターバンを巻いた、最も裕福で最も力ある王子たちを運んでくる。列車や船、ラクダの隊列がカプールタラーに向かって急ぎ足でやって来る。そしてそこに、威風堂々の人々に囲まれて、トーマスが、ニペルナーティと呼ばれる若者が、痩せ馬に乗り、みすぼらしい服を着て北からやって来た。しかしその男は、自分の賢さと魅力に気づいていて、からかいや侮蔑を気にすることなく、笑みをたたえていた。遠い遠い森と水の国、北の地からやって来た男だ。そして時が過ぎ、賢い男たちがみな何もできずに終わると、この男は運試しをする。特別なことをするわけでなく、ただ病気の娘に故郷の森や草原の話、白夜や暑い日々のこと、川で泡立つ滝の話、沼地の秘密を話して聞かせた。ところがいいかな、エネレレは起き上がり、冷たいベッドから起きて小さなサクラソウ、シロビタイジョウビタキは楽しそうに明るく笑い声を上げた。ほら、彼女は元気になった、神に感謝だ」

 「カプールタラーの王子、大金持ちのマハラジャは、胸をバンバンと叩いた。そしてわたしの持つものすべてを持っていけ、と言う。さらにわたしをあなたの召使いに、と。そしてそこにいた者たちみんな、王子たち、賢者たち、聖職者たちは屈辱を受け、髪をかきむしり、這い回り、しゃがみ込んだ。怒りと妬みで大声で叫び出したかったが、そうはせず、目をぐるりとまわし、口を閉じた」
 「するとこの北からやって来た若者、トーマスはこう言う。『紳士のみなさん、わたしは何も欲しくありません。この財宝はいりません。わたしはこの1000倍も金持ちなのです。故郷に帰れば、揺れる森があり、そこを雁が鳴き声をあげて飛びまわっています。わたしには牧草地があり、そこには美しい花々が咲き乱れ、それはあなた方のルビーの山より魅力的なのです。北の地には農地があり、金色に輝くトウモロコシの稲穂が風に揺れています。まるで吠える海原のようです。それに太陽が、真夜中でも輝いている太陽があるんです』」
 「ほんとうか、と人は不思議がるでしょう。太陽が真夜中に輝くかって? そうなんです、本当です、それがわたしの答えです。真夜中にもお日様が輝いているんです。実際に、わたしはまだ小屋一つ手にしてないです、そこで暮らす小屋を、ごく小さな小屋ですらね、でもそれを手に入れるでしょう。でもあなたたちからは、何もいりません。わたしは自分の楽しみのために、そして小さなエネレレのために、ここに来ました。もしよければ、わたしは小さな記念品を手にしたい。エネレレの小さな靴を一つ、彼女の足から脱がせて、胸ポケットに入れて馬に乗ります。ごきげんよう、お元気で、そう言います」
 「これは本当の話なんだ、神様の前で、僧侶の前で、高位の人の前で誓える。これが昨日の晩に起きたこと。その証拠にそのサクラソウの小さな靴を見せよう。ほら、これだよ、ここに……」
 ニペルナーティはポケットをかき回した。ジリジリして、不安になり、あちこちを探しまわる。
 「どこに入れちゃったかな? なくなるはずはないよね」と慌てふためいて言う。
 そして今、目が覚めたとでもいうように手で額を拭った。
 「白夜はこんなふうに人の頭を狂わせる」 そう言ってため息をついた。
 ニペルナーティは眉をひそめ、口を閉じる。

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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