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[エストニアの小説] 第4話 #2 アン・マリ(全15回・火金更新) 

#1 ヤーニハンスの森
……すると太陽がその黒い雲の影に隠れ、あたりは夕暮れの薄暗さに包まれた。遥か遠くの丘が、一瞬、光を受けて輝いた。雷がどんどん近づいてくる。雨が降り出した。トーマス・ニペルナーティはすべなくそれを見ていた。

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 と、そのとき、ニペルナーティは森の方から走ってくる男に気づいた。ドスンドスンと重い足取りで、不器用に腕を振りながら大慌てでカーバの居酒屋めがけて走ってきた。重そうな革長靴を履いた短い足が、酔っ払いの足取りのように動いていた。男は太って背が低く、小さな頭をその肩に乗せていた。そのだいぶ後ろから、女の子がスカートの端をもって、跳ぶように追いかけてきた。

 「クープ、クープ」 娘は大声で叫んでいた。「クープ、あたしを置いていかないで!」

 しかしクープは振り返ることすらしなかった。荷を積んだ馬のように、斜面をなだれ込むようにして走ってきた。

 「クープ、ひどいやつだ」 女の子は大声で文句を言っている。「待って、たのむから待って」

 突然、すぐそばで雷が炸裂した。ダムが決壊したかのように雨水が流れ出した。少し前まで土埃をあげていた熱い地面には、速い流れがいくつもでき、それは最初小さくてチョロチョロとした流れだったが、すぐに轍(わだち)を引くように進み、他の細い流れと合流し、すきの刃ですくうように水底を押し広げ、溝の中、水溜りで楽しげにゴボゴボとうなり声をあげ始めている。大きな雨粒は地面で跳ね返り、きらめく土ぼこりの中で跳び散った。大地が湯気をあげ、泡立っている。

 女の子は道の真ん中で立ち止まると、何かを恐れるようにまわりを見まわした。

 ニペルナーティはひとっ飛びで女の子の隣りに立つと、その手をつかみ、近くの打ち捨てられた納屋へと走った。二人はずぶ濡れになって、ポタポタとしずくを垂らしながら小屋の中に飛び込んだ。落ちる滝の勢いで空から水が溢れ出し、光を発し、きらめき、大音響をあげていた。そして大きな流れが丘の斜面をなだれ落ち、朽ちた葉っぱ、枯れ枝、腐った松の実、泥や腐葉土など重い荷をさらいながら、沼へと向かっていった。水の浅い部分は、大きく広がる灰色の水の草原となった。雷が空を割り、巨大なカマドからきらめく火を投げつけてきた。絶え間ない雷の轟(とどろき)のせいで、空気が揺れ、空洞の中のように音が響きわたった。あたりは息がつまるような暑さでムッとしていた。

 「きみの名前は?」 ニペルナーティが訊いた。
 「アン・マリ」 女の子は顔を拭いながら答えた。濡れた髪がニキビの跡のある顔に垂れていた。小さな目はむっつりと不機嫌そうに見えた。雷が轟くたびに、からだを震わせ、そばにいる若い男の方に身を寄せた。服から垂れる雫で、彼女のまわりには水溜りができていた。

 「あそこの森の中で何をしていたんだい?」とニペルナーティ。「嵐がやって来るのが聞こえなかったの?」
 「ちっとも聞こえなかった。すごくよく晴れて静かだった。お日様だって……」
 と、そこで突然、何かに気づいたようだった。
 「クープ、あいつのせいだ」 そう悪態をついた。「雷が落ちてきそうな道の真ん中にあたしを置き去りにした。あの臆病者が。あんなやつと森に行くなんて。すごく暑くて、あたしは木陰で惚けてうとうとしていた。それで空が真っ黒になって、雷が鳴りはじめたとき、クープが飛び上がって、頭がおかしくなったみたいに森の中へと走り込んでいった。あたしのことをすっかり忘れてた。なんて奴なんだ。あたしたちはベリーの実をつみに、森に来てたんだ」
 「そのクープっていうのは誰?」とニペルナーティ。
 「クープは居酒屋の主人、あそこだよ、カーバのところ」 女の子は出入り口の向こうに見える沼地を指した。「あの居酒屋はだめだね、ほんとに。夏にはまったくの空っぽさ。テーブルの上でハエがブンブンいってる。冬はまあ少しいいけど。男たちが畑から戻ってきて、ジプシーのキャラバンも帰ってくる。そうするとクープはやることができる」

 「ジプシーが、この湿地に?」 ニペルナーティは訊き返した。
 「そうだよ、ジプシーだよ!」 アン・マリは語気を強めた。「あっちだ、左の方」 アン・マリは親指でそこを肩越しに示した。「あれがあいつらの小屋だ。いまは空っぽ、いるのはトビハネ・ヤーンだけだ。トビハネ・ヤーンのことは聞いたことあるよね。本当の名前はヤーン・インダスだけど、みんなトビハネ・ヤーンって呼んでる。頭がちょっとおかしくて、自分を馬だと思ってるんだ。自分で自分にムチ打って、いななきながら湿地の道を走っていくのさ。本物の変人だよ。あの男はずっと、馬を取引したり、売りさばいたり、交換したり、盗んだりして暮らしてきたけど、この年になって、自分が馬だと思い込むようになった。地面をけって、いなないて、馬歩きすることだけが生きがいなんだ。ムチ打たれて『ほら、行け!ほらほら!』って言われてるときが一番の幸せで。うすのろギディ、ほら起きろ、ジージーって。そうすると頭をそらして、ヒヒーンって鳴いて、風みたいに道を走っていくのさ。仲間のジプシーがやって来ると、あいつにパンの一切れも置いていく。だけどインダスじいさんは藁や麦や草も食べるんだ。実はジプシーたちは、盗んだ馬を隠すのに都合がいいから沼地に住んでいる。よそものは、あいつらの馬を見つけることができない」

 「ところで、きみ自身はどういう人なの?」
 「あたしのこと?」 アン・マリはゆっくり言った。「誰って、たいしたもんじゃない、夫のヤイロスも遠くに行ってるから、あたしはクープのとこでメイドとして働いてる」

 突然大音響がひびき渡り、納屋がまるごと火に覆われたようになった。地面が揺れ、大きな音に包まれた。アン・マリはひとっとびでニペルナーティのひざに飛び込んだ。
 「キリスト様、ただ一人の神に愛された子、わたしたちの守り神、わたしの罪や間違った行いを、嘘や悪事をお許しください、これまでの罪人と同じように」 身を縮め、指先を口もとで合わせ、アン・マリは一息でそう言った。

 「きみは罪人なんだね、あのクープと?」 ニペルナーティはひざの上に女を抱えながら、こう言って笑った。
 アン・マリはさげすむような目つきで見て、ニペルナーティを推しやった。
 「しょうもない罪よ、あのバカとね」 無愛想に答えた。
 雨水が女の服からポタポタと床にこぼれた。その水たまりを恥じているのかピョンとカササギのように跳ねると、渇いた床をさがした。雷が鳴るたびに、恐がってまわりを見まわし、身を縮めて口もとに手を当てた。しかし雷鳴の間には、陽気に生き生きと早口で、あれやこれやと話しつづけた。頭に巻いていたスカーフを外すと、ひざの上に置いた。アン・マリの輝くブロンドの髪は濡れて束になり、肩にかかっていた。くちびるは白い顔に縁どられて、真っ赤なトマトのようだった。

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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