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幸い(さきはひ) 第三章 ⑥

第三章 第六話

 千鶴が桐秋の状態を確認する数少ない機会の中で、見る顔はいつも無表情。

 何事にも無関心な顔だった。 

 それが今日、千鶴が桐秋の部屋に入った時に見た顔は、本に必死に噛り付く、鬼気迫る逼迫《ひっぱく》した形相。

 冷たい表情しか見ていなかった千鶴は、桐秋の中に、そんな熱い部分があるのだと驚いた。

 と同時に、あまりの変わりように別人かと不安になり、思わず声をかけてしまった。

 さらにその勢いのまま、諫めてしまった。

 それほどまでに桐秋は、桜病の研究に一心に取り組んでいたのだ。

「桐秋様が何のために、あそこまで桜病の研究をなさるのか。

 ・・・・私にはわかりません。

 ですが、それを望まれるのであればお側でお支えしたいと思ったのです。

 あれほどまでに打ち込まれることがあれば、生きる活力にもなりえるのではないでしょうか。

 もちろんお体に触らないよう工夫します。

 どうか、桐秋様の研究を続けさせて差し上げてください」

 千鶴は、南山の目を正面から直と見つめると、深く頭を下げる。

 千鶴の訴えを聞いた南山は、吸ったままの葉っぱが浮いたパイプの穴に、細長く先が平らな棒を押しつけ、表面をならす。

 そこに再び火をつけ、ゆっくりと煙を口に回す。

 それを細く長く吐くと、目をつむり、深く腰掛けた体制のままで千鶴に告げた。

「直接の研究は認められない」

 南山の否定の言葉に千鶴は下げたままだった悲痛な表情を勢いよくあげた。

 しかしそこにあったのは、いつも千鶴に向けられる安堵を与えてくれる笑み。

「が、文献による研究は考えよう。

 千鶴さん、桜病の研究を行いながら、治療もできる看護計画を作りなさい。

 それを見て、研究続行の可否を判断させて貰う」

 研究を認めてもらえる機会を得たことに、千鶴は喜び、南山の目を見て礼を言う。

 南山に向けられる千鶴のまっすぐな瞳。

 初めて会った時に向けられたどこまでも澄んだまなざしと似ている。

 その意志をもった揺るぎない眼《まなこ》に南山はこの子は誰かのためならば、自分よりも大きい何かに立ち向かう強い人間なのだと改めて思い知らされる。

 そんな千鶴の瞳を南山は前面に受け止め切れず、視線を逸らし、後ろを振り向いた。

 窓越しに暗くなった庭を見つめる。

 奥には、今は夜の闇に隠れた、大切な宝物を閉じ込めた家がある。

 そして、ぽつり、独り言のようにつぶやいた。

「私も君と同じことをした。

 医者なのに、父親なのに、桐秋の胸の内をくみ取れず、すべてを取り上げてしまった。

 妻の時のように、失うことを恐れるあまり」
 
 医師でなく、一人の男親の嘆き。

 千鶴はそれに間を置き、ゆったりと語り掛けた。

「医者ではなく親ならば、大切な人であればあるほど、そう思うのではないでしょうか」

 千鶴の目の前にいるのは、大きな背中を気弱に縮こまらせた、一人の子の父。

「親ならば、子にどうしてでも生きていて欲しいと思うはずです。

 起き上がれなくても、寝たきりでも、生きていてくれればなんでもいいと。

 しかし過ぎる思いは冷静さを欠き、時に正常な判断をできなくさせます。

 本人が真に望んでいることさえも気づけなくなる。

 そのような時は私に大事なことに気づくお手伝いをさせてください。

 きっとそれも看護婦の仕事ですから」

 そう微笑みながら優しく告げる千鶴に、南山は庭を見つめたまま震える声で

「ありがとう」

 と言葉を返した。

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