エピローグ 夫人というには若く、乙女というには落ち着いた印象の女性は、鏡台の前で丁寧に髪をすいていた。 柔らかな髪をなでるのは桜の彫物が入った艶やかな桐の木櫛。 愛する夫が、髪を切ったのをきっかけに贈ってくれたものだ。 その人の髪は、肩につかないほどに短く切られ、緩やかに波打つ。 それは今流行のパーマではなく彼女本来の髪質。 絹糸のように美しい毛髪は、朝のうららかな光を受け、きらきらときらめく。 もう髪を黒く染める必要も、長く伸ばす必要もない。
第十一章 第二十話 「君は、私に幸せであるようにと願った。そして先ほど、自分も幸せであったと言った。 でもそれは違う。 幸せ、幸《さいわ》いは、“ 咲《さき》はひ”花盛りが長く続くという意味だ。 私は君がいないと、盛りを迎えることができなし、君も長くは生きていない。 君がいつか言った人生の花盛りを謳歌できていない、互いに幸せを叶えられていないんだ。 罪悪感や恐怖が愛ではない。 互いに幸せを願い、想いあって《《生きていく》》ことが私たちの愛なんだ」
第十一章 第十九話 「私が、貴女様を苦しめた私が生きていていいのですか」 強い生に満ちあふれた桐秋に抱かれる美桜の想いは確実に生へと傾いてきている。 けれど、美桜の背負ってきた薄暗い部分がそれを素直に肯定できない。 どうしても、自分の罪を問う自分がいるのだ。 お前は一番大切な人を死の間際まで追いやったのだという顔をしてこちらを覗きこんでいる。 「いい。関係ない。 もし、君が桜病のことで引け目をかんじているのなら、君が発端となった最期の桜病患者として、私
第十一章 第十八話 十年以上言われなかった名前だった。 次に呼ばれるときは違和感があるだろうと思っていた。 けれど、その人が、桐秋が、低く柔らかい声で紡いだ春の女王の名を関する名前は、薄絹《うすぎぬ》をまとったようにしっとりと、自身の体にそってなじんでゆく。 「どうして」 驚いた顔で美桜は尋ねる。 「すべてを聞いた」 桐秋は端的に、表情を変えずに述べる。 「でしたら、余計になぜここにいらしたのです」 美桜は問う。 「約束を果たしに来た。 あ
第十一章 第十七話 しかし、春の嵐に吹き飛びそうな細い体は地に着くことも、ましてや別世界に行くこともなかった。 「君が見せた表情の理由がやっとわかった」 瞼を閉じたうすぼんやりとした赤黒い視界の中、聞こえたのは、ここにはいないはずの人の声。 「あの時、私が君に桜が好きだと初めて告げた時、 君はほんの一瞬だけ、激情を内に秘める泥眼《でいがん》のような形相を浮かべ、震えていた」 ここにいないはずの愛しい人の声。 「なぜだろうと思っていた。 いつもたおやか
第十一章 第十六話 そう微笑みながら、胸の内を目前の花木に告げ終わった時、女はそぞろに昔の記憶を思い出す。 今はもう顔もあまり思い出せぬ父が、血にまみれた中、最期に吐いた言葉。 『愛は人を狂わし、桜は人を死に至らしめる』 幸福な刻を一瞬にして終わらせた呪いの言葉。 何かの詩の一部か。 はたまた、父がこの世を呪った言葉だったのか。 自分の心の奥底に呪詛のように残っていた。 ――でも今際、その言葉の意味が理解できる。 ――父は、母のことを愛するがあま
第十一章 第十五話 そこで女は目を閉じる。 寸暇の静寂の後、開かれた瞳には情欲をはらんだかすかな炎がゆらりと浮かんでいた。 それは薄紅の花を携える樹木に向けられる。 「いえ、それはただの口実ですね。 体液を貴方様に取り込むだけなら、体なんて交わらせなくても他にもやりようはあった」 女は皮肉を込めた笑みを浮かべる。清純な乙女は一時、世界のことわりすべてをしったかのような成熟した女の表情を浮かべる。 「私が貴方様と愛を交わしたのは、貴方様のすべてが欲しか
第十一章 第十四話 「たくさんの想いが排出されて、最後に心の湖底に白く澄んで残ったのは、最初に抱いていた誓い」 ――ただただ純粋に、この人だけはどうしても、なんとしても助けたいという想い 「すべてはそこから始まっていたのに、貴方様と共に時を過ごすほどにそれは自身の欲にまみれた感情に汚され、穢されていった」 ――その先は望んではいけないと、 ――こんな自分はこの世にいてはいけないと、 ――貴方様のためだけに罪深い私は生きているのだと、 ――貴方様を愛し、愛される
第十一章 第十三話 満ち足りた日々を過ごすうち、瞬く間に季節は巡った。 しかしそれは幸せに向かって歩むのではない。 薄氷を踏むような道中での夢の如き出来事。 現実は憂いを帯びて二人に迫る。 「冬になると貴方様が体調を崩されることが多くなりました。 そんな貴方様をお支えするため、より近くで研究を補佐するうちに、自分の血が貴女様の患っている桜病の治療薬になるのではないかという考えをもつようなりました」 大まかな桐秋の研究内容は南山から聞かされていた。
第十一章 第十二話 一瞬生気が戻ったように女の瞳は輝く。 「一目見ただけで、貴女様が初恋の王子様だとわかりました」 後ろに纏《まと》う薄紅の花が誰よりも何よりも似合っていたから。 「でも昔と違うものもあった」 桐秋の姿が死の匂い漂う、あまりに儚げなものであったこと。 「桜の幻想世界に消えゆきそうな貴方様を現実世界に引き止めるため着物の袖を掴んだ時、 貴方様の存在を成長してこの身に初めて感じた時、 絶対に貴女様を死なせないと誓ったのです。 そしたら
第十一章 第十一話 「自分の奪った命の重さに打ちのめされ、私はしばらくその場から動けずにいました」 あまりのことに、涙さえ出なかった。 「人の命を奪った自分が生きていていいのだろうか。 ぼんやりとそんなことを考え始めたとき、はたと頭をよぎったのは初恋の王子様、大事な誓い、握った小指」 花嵐の中でその人は自分の細く、白い小指を見つめる。 「桜病は接触感染。 心の支えとしていた大切な儀式が大きな過ちとなった瞬間でした。 たった一度の接触。 でも、一
第十一章 第十話 「私は真実を知りたくなり、養父の書斎に入る機会を伺うようになりました。 亡くなった父の研究資料が、そこに移されていたことを知っていたからです」 資料を見れば、自身の病や桜病について何か分かるのではないかと思ったのだ。 「しかし、養父は書斎の鍵を常に持ち歩いていて、鍵をかけ忘れるでもしないと中には入れませんでした」 虎視眈々《こしたんたん》とその時を待ち続けた。 「二年がたったある日、その日も私は養父が外出をしたのを見届けると、すぐに書斎の
第十一章 第九話 通りの桜がすっかりと葉桜に変わった日、突として、その時は来た 「父は大量に血を吐き倒れ、呪詛《じゅそ》のような言葉を残して、動かなくなりました」 彼女の周りをそよそよと漂っていた風がぴたりと止まる。 ――自分では父の心を救うことはできなかった。父は憎しみにのまれて死んでいったのだ。 「何度父のことを呼んだでしょう。 最後は声も枯れ果てていました」 それでも音にならない音をひゅっひゅっと吐いていた。 「父の吐いた血が赤黒く固まって、私
第十一章 第八話 「年を越えて、その年の桜の蕾がほころびはじめたある日、私はいつものように父の研究室の前で独り、遊んでいました。 するといきなり研究室の扉が開き、父が出てきました」 思いもがけない出来事に動けず、座ったまま父の姿を見上げていた。 「父は私をその眼で捉えると、幼い私の視線の高さに屈み、目を合わせ、柔和な顔ですべて終わったのだと告げました。 私は何のことを言っているのかわかりませんでした」 それでも理由が何であれ、父の瞳に自分が映っていること
第十一章 第七話 「大げさかも知れませんが、その約束だけで、これから先の人生を生きていけるような気がしたのです。 最後に指切りをして私たちは別れた。 大切な約束を誓う《《神聖な儀式》》‥」 強い春風に薄金の髪をなびかせたまま、女子はうつろな表情で桜を見つめている。 そこにいずれの感情も読み取ることは出来ない。 「父は、それまで住んでいた母方の祖父の家から、自身の実家へと引っ越しました。 そこでは血を採られることはなくなりましたが、父は研究室に籠もりきり
第十一章 第六話 しかし幸せな日々は長くは続かなかった。 不穏な話の流れに合わせるかのように強い風が吹き上がる。 突風は山桜の子どもたちを母から一気に奪い去り、方々に散らせていく。 「桜の花が緑の葉に姿を変え終わる頃、 私は父に病気なのだから外には出てはいけないと告げられ、近々療養のためにここを引きはらうと言われました」 父は娘が自分の目を盗んで、どこかに出かけていることに気づいていたのだ。 「それでも最後にどうしてもお別れを言いたくて、貴方様に会いに