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幸い(さきはひ) 第十一章 ⑰

第十一章 第十七話

 しかし、春の嵐に吹き飛びそうな細い体は地に着くことも、ましてや別世界に行くこともなかった。

「君が見せた表情の理由がやっとわかった」

 瞼を閉じたうすぼんやりとした赤黒い視界の中、聞こえたのは、ここにはいないはずの人の声。

「あの時、私が君に桜が好きだと初めて告げた時、

 君はほんの一瞬だけ、激情を内に秘める泥眼《でいがん》のような形相を浮かべ、震えていた」

 ここにいないはずの愛しい人の声。

「なぜだろうと思っていた。

 いつもたおやかな笑みを浮かべる君があんな顔をしたのは初めてだったから・・・。

 置いていかれる身になって、それがやっとわかった」

 ここにいないはずの愛しい人の怒りを帯びた声。

 光を宿す宝石を収めた宝箱が、ゆっくりと開かれる。

 恋しい人の現実に呼び止める声を鍵にして。

「それだけ私への愛を欲張り、解《と》いていてどうして諦められる。

 どうして離れて幸せになれると思う」

 扉が開き、覗いた宝石の瞳には愛する人の姿が映る。

 その人はあの時の自分を鏡にしたように怒っていた。

 そして・・・泣いていた。

 一度も人前で涙など見せたことがない人なのに。

 白く細い弱った腕をなんとか持ち上げ、優しい人の雫を拭う。

 自分の涙を拭うのが桐秋の仕事なら、桐秋の涙を拭うのも自分の仕事だ。

 後悔はないはずだった。

 愛した人にすべてを捧げ、罪深き自分は死んでゆく。

 それが最善だと思っていた。

 でもこの人が自分を強く抱く温かな腕は、そんな決意をもいとも容易く揺るがしていく。

 こんなに力強く太い腕ではなかった。こんなに血色のいい肌色ではなかった。

 最後にこの腕に抱かれたときは、あんなにも浮世離れした人だったのに。

 今は地に根を生やし、生きる力に満ちている。

 後ろに携える生命力あふれる山桜がとてもよく似合っている。

「よかった」

 その様子に自然とその言葉が出てきて微笑む。

 すると、男はまた怒ったように言う。

「よくない。君は私を置いていこうとした。君の、『美桜《みおう》』の居場所はここだ」

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