幸い(さきはひ) 第十一章 ⑧
第十一章 第八話
「年を越えて、その年の桜の蕾がほころびはじめたある日、私はいつものように父の研究室の前で独り、遊んでいました。
するといきなり研究室の扉が開き、父が出てきました」
思いもがけない出来事に動けず、座ったまま父の姿を見上げていた。
「父は私をその眼で捉えると、幼い私の視線の高さに屈み、目を合わせ、柔和な顔ですべて終わったのだと告げました。
私は何のことを言っているのかわかりませんでした」
それでも理由が何であれ、父の瞳に自分が映っていることが嬉しくて堪らなかった。
「父の瞳に映った私の姿はどんどんと歪んでいき、私は貯めに貯めた大粒の涙をあふれさせました。
そうしたら父も堪えるような顔をして、『寂しい想いをさせてすまなかった』といって、力一杯に私を抱きしめてくれました。
その時やっと、私は大好きな優しい父が帰ってきたのだと感じました」
瞼を閉じて、遙か昔の静穏な日々を懐古する。
「それからひと月、父は研究もなにもかも辞めて、すべての時間を私と過ごすことに費やしてくれました。
食事も、お風呂も、眠るのも、全部一緒でした。
その一年、耐え忍んできた日々を思うと、私にはそれが夢のようでした」
最初の頃、毎日頬をつねっては、それが現実なのだと確かめていた。
するといつも父は、引っ張った頬を優しくさすってくれた。
父の手は大きく、すっぽりと小さな頬を包みこむ。
それが堪らなく好きで、現実だと分かった後も、大きな手に撫でて欲しくてわざと頬をつねっていた。
「私は父に、眠る前に本を読むことをせがみました。
それは私が生前に母から譲り受けた本。美しい装丁の英国の詩集です。
父に見せると初めは驚いていましたが、恥ずかしくも嬉しそうに、父と母が結婚する前、日本語が話せなかった母とこの詩集を使って、やり取りをしていたのだと教えてくれました」
愛や季節を詠う詩が収められた詩集で、互いの気持ちを表現していたのだと。
そう言った父の顔はとても幸せそうだった。
――父は母を深く愛していたのだ。
「父はその本を必死になって読んでくれましたが、カナリヤのように美しい声で、感情豊かに読み聞かせをする母と違い、声が固く、本の朗読が下手でした。
けれど、低く穏やかな声は心地がよく、私はいつもいつのまにか父の温かな腕の中で眠っていました」
父の一切を独り占めする贅沢な時間。
「しかし、そんな日々も長くは続かないことは分かっていました。
その一年で父の肌は白くなり、体はどんどんと痩せ細っていたからです。
父は見せないようにしていましたが、私は、時折父が血を吐いていることも知っていました」
――だからこそ余計に、父にたくさんのわがままをいって、困らせた。
――別れることを嘆く代わりに、目一杯甘えることにしたのだ。
――そのほうが自分も父も幸せだと思ったから。
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