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子供時代の貧困と虐待生活 -4-

アル中の祖父の心無い一言で、母はお化け屋敷のようなボロいアパートを借り、僕と二人きりの生活を始めた。

だがこの二人きりの生活は、母親をどんどん怠けさせることになる。

今まで他の大人たち(僕の父や、祖父母)がいたから嫌々ながらも家事をこなしていた母だったが、僕と二人きりの生活が始まり、そういった周りの大人たちの監視の目がなくなった途端に、母は家事をほとんどしなくなった。

深夜遅くまでダラダラと寝転んでテレビを見る。寝るのは3時とか4時とか。
そのため朝はいつまでも起きてこない。
僕が学校に行く時間になっても起きてこない。
昼間は僕が学校に行っているので、家で何をしていたのかはわからない。
たぶんこの間に掃除、洗濯などの最低限な家事はこなしていたのだと思う。

僕が寂しく感じていたのは、学校に行く前の朝の時間だ。
僕は一人っ子なので、一人で起きて、一人で着替えて、一人でポンキッキを見る。
朝ごはんは準備されていない。
そして時間になったら家をソッと出る。

「いってらっしゃい」を言われないし「いってきます」も言わない。

そんな母親も、遠足のときや運動会のときなどの学校行事のときは渋々ながら起きてくる。お弁当を作らないといけないからだ。
そしてその日は朝ごはんを作ってくれる。それが何よりうれしくて、たくさん話しをしていた記憶がある。

転校から数ヶ月、言葉もすっかり九州弁になった僕をイジメる子もいなくなり、放課後に一緒に遊ぶ友達もできた。
学校が終わるとランドセルだけ置きに一旦家に帰る。
学校から帰ってきたときに、母親が家にいなかったり、いたとしてもダラダラと寝ていたり。

祖母が飲食店を経営(パチンコばっかり行ってたので、開店休業状態だが)していたので、母がそこの店番をしている日は基本、家にいない。
家にいても寝てるだけだし、たまに起きていても理不尽なことで僕を怒るだけだ。
そんな家にいてもなにも楽しくないので、僕はカバンを放り投げ、すぐさま外に出る。

二人で暮らしはじめの頃は、外から遊んで帰ってきたらご飯が用意されていた。
でも何ヶ月かすると、母親は僕にコメを研いで炊く準備までさせるようになる。家のお手伝いをしているといえば聞こえがいいが、今考えると母が怠けたかっただけのような気もする。
僕はお米を研ぐために早く帰らないといけないから、みんながまだ遊んでる時間に先に帰ったりしていた。

まだ子供だし、友達と遊んでいて途中で僕が一人だけ抜けるのが嫌だってときもある。そんなときはついつい帰る時間がオーバーしてしまって、お米を研ぐ時間に間に合わなくなることもあった。
そういうとき、母親はヒステリックに怒りだす。
「叱る」というより、ただ感情的になって汚い言葉で叩きのめすような怒り方だった。

感情的になりすぎて、時々母は行き過ぎたしつけを僕に押し付けてくる。

僕は真冬の寒い夜に、家を追い出されたことがある。
忘れもしない小学五年生のとき。
母が怒りだして僕に「出て行け!!」と言い出した。そして泣きながら嫌だと抵抗する僕の手を取って、家の外に放り出した。外は寒い冬の夜だ。
寒くて家の前でうずくまってずっと泣いていた。
今でもあのときのことは鮮明に覚えている。

僕が住んでいた地域はその当時、結構治安が悪くて中学高校くらいの年齢のいわゆる「不良の人たち」が夜な夜なシンナーを吸ったり、集団で徘徊したりしていた。
僕の家の近所にも暴力団と関わりのある家族が住んでいて、そこの息子(当時中学生だった)がその夜、不良仲間を連れてウロチョロしていた。
そして、不良の集団が家の前でうずくまって泣いている僕を見つけてからかい始める。
小学生の僕からすると、恐怖でしかない。

なぜ僕の母親はこんなことをしたんだろう。僕は今でも理解ができずにいる。

今思うと虐待だったんじゃないかと思う生活も、子供の頃は自分の家族が世界のすべてだったから、その環境下にいるとそれが普通のことだと思いこんでしまう。

なので僕もいつの間にか、こういった生活に慣れてしまう。
だけど社会とのズレ、他の家庭の人達とのズレは隠しきれない。

時間は無情に過ぎていく。

そして僕は中学生になった。

つづく

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