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子供時代の貧困と虐待生活 -5-

子供というのは自分の家庭が社会のすべてだ。どんなにひどい家庭であっても、生活は毎日続き、当たり前の日常になっていく。

僕は中学校に入学した。

僕が住んでいた地域は、以前も話したように治安があまりよくなかった。中学には時代遅れな服装や髪型をした、いわゆる不良たちが何人もいた。
はっきり言ってそういう人たちとは関わりたくなかった。平穏無事に中学生活を送りたかった。

しかしそんな僕の思いを打ち砕くように、母は奇行に走る。

入学早々、母がどこかから自転車を盗んできた。なぜ母がそんなことをしたのか、僕は今でも理解ができない。
どこから盗んできたのかはわからないが、でかでかとマジックで僕の名前を盗んできた自転車に書き、今日からはコレに乗れと言い出した。

だがその当時、僕の感覚もずいぶんと麻痺していた。
毒親と生活をして2年もすると、おかしな母の言動も当たり前の日常になっていく。僕は母親というのはそういうものだとずっと思い込んでいた。

今思うと呪いにかけられていたような状態だったんだと思う。

盗んできた自転車の持ち主は僕の中学校の先輩だった。
しかも不良の先輩。

僕は放課後、呼び出されてものすごく怖い思いをさせられた。
暴行はなかったが、とっても怖かった。
しかし自転車を盗まれて怒るのは当たり前のことだ。
彼は何一つ悪くない。ついでにいうと僕も悪くない。

悪いのは自転車を盗んだウチの母なのだ。

帰宅早々、母に文句を言った。
人の自転車なんか盗んでくるな、しかもでかでかと勝手に僕の名前を書くな、おかげで先輩にめちゃくちゃキレられたんだぞ!

しかし母は自分がしたことを棚に上げ、先輩に文句を言われたくらいでビビるな。男ならやりかえせ。情けない男だ。
と、僕が弱い男であることがすべての元凶であると言い出す始末。

はっきり言って話にならなかった。
今思うと、中学生という子供から大人になっていく大切な時期に僕は、人として破滅してるよくわからない大人に、ただ死なない程度に餌を与えられて飼育されているだけだった。

大人になるために必要なコトを、この母親からは何も学べなかった。

相変わらず、朝はいつまでも寝ていて、僕は一人で起きて朝食も食べずに学校に行っていた。
僕の中学校は給食がなく、生徒はお弁当を持参する。
僕は毎日200円だけ持たされて、学校で注文することができる指定のパンを買っていた。
他の生徒のお弁当が羨ましかった。

友達はみんな部活をしたり、進学塾に行ったり。
貧しさと毒母のせいで僕は、みんなと同じような中学生活を送ることができなかった。

おこづかいももらえないし、勉強のための参考書なんかも買えない。
どう仕様もない状況をなんとかしようと僕は、中学一年生の夏休みから新聞配達のアルバイトを始める。

つづく

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