集団行動①

 以前働いていた職場で、こんなことがあった。
「誰か、これ運ぶの手伝ってー!」
 彼女の手元に置かれているのは、小学校の教室にあるような、一人用の勉強机。十人にも満たない小さな事務所に居た数人が、一斉に立ち上がる。結局、一人用の勉強机を4、5人でわいわい言いながら運んで行った。
 彼女達が立ち上がった時、私は声のする方を見はしたが、立ち上がらなかった。
「手伝ってー!」が異様だと感じたのは、『そんなん一人で運べるやん』と思ったからだ。
 4、5人でわいわい…の様子を見て、正直、気持ちが悪かった。
 
 ここの仕事は自分に合っていたと思うし、とても好きだった。給料も、今まで働いたところに比べると格段に良かった。一生懸命働いたし、実績を上げた自信もある。しかし最終的に、私は職場を追われ、心を壊した。いや、心が壊れたことで仕事を失ったのかも知れなかった。
 今考えても、変な職場だったと思う。チャンスがあれば、もう一度そこで働きたいかと問われれば、確実にNOだが、仕事に関しては、志半ばという具合でもあったため、もう一度やれるものならやってみたい。しかし、この時しっかりと自覚した事実だけは、きっとこれからも変えられる気がしない。
 私は、集団行動が苦手なのだ。
 
「専任になっても、給食食べないんですか?」
 ある時、若い保健の先生に訊かれた。
「はい。」
 何故?の問いに答える。
「職員室で食べる人達の配膳を手伝って、それから自分が食べて、昼休みの開館に間に合わせる自信が無いから。」
 実際そうなのだが、理由はそれだけではない。
「母も弁当がいるので、一つ作るのも二つ作るのも一緒。」
(作っているのが必ずしも私ではないことは、正直に伝える。)
そして心の中で…
『食べたいとは限らないものにお金を払えるほど豊かではない。』
『毎月、給食費を計算してもらって支払いするのが面倒。』
 これは受け止め方によっては、単にケチとしか映らないので、敢えて黙っておいた。
 
 また別の日…
「先生、歓送迎会行かないんですか?」
 今度は二人いる保健の先生方から、同時に訊かれる。
「行きません。」
 またもや、何故?の問い。
「敷居が高いからです。」
 実際そうなのである。
 
 学校の先生達の集まりって、とんでもない金額が動いている。
〝親睦会〟なるものが存在し、殆どの職員はその一員となって、月々一定の金額を積み立てる。そこから冠婚葬祭関連の支払いが行われたり、休憩中に飲むお茶を買ったり、親睦会旅行などの資金として使われているのだが、元々週二日と週三日の兼任で勤務する立場だった私は、〝半額収め〟という制度の無い〝親睦会〟には入らなかった。片方だけ入ったところでかなりの無駄が出るし、両方入れば、勤務日数は同じなのに、併せると倍額払うことになる。依って、毎日のお茶は自分で用意していたし、冠婚葬祭など、有志で行う場合は別で支払ってきた。
 また、年に数回行われる、歓送迎会などの打ち上げ的食事会に参加しようとすれば、その都度自己負担となる。当たり前のことだが、ある時、自己負担で参加すればいくらかかるのか…と訊いてみてびっくりした。
『そのお金でランチ何回行けるやろ?』
『飲みに行っても大分余るな…。』
 
『敷居が高い』のは、金銭的な理由ばかりではなく、人間関係という面でも充分に当て嵌まる。学校の先生ばかりの職場で、私は教員という立場でない。別の学校では色々あるようだが、有り難いことにこの職場で、精神的な職業格差に苦しんだことは殆ど無い。しかし〝教師ではない別の職種〟という差別は普通にある。
 過去に、〝保育士集団の中の保育士〟という、同一職種の一員として働くことに疲れた過去を思えば、現在の一匹狼的な立ち位置は、実は頗る居心地が良い。孤独な仕事ではあるので、時に寂しさを感じることが無いわけではないが、集団の中で協調して然るべき…という圧力を感じずに存在していられるのは、集団行動が苦手であることと協調性に欠ける自身の性格を自覚している身としては、とても気楽なのであった。

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