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精神障害の受容とその葛藤 特例子会社のトイレで泣き崩れたのは「機会」がなかったから


これは2019年の9月に書いたものだ。今読むと障害者差別にとれるところもあり稚拙で、そのまま載せるのをためらったが、当時の私の切実な思いに手を入れることができなかったので、直さなかった。


「普通の女子高生」が双極性障害になって

別に勉強ができないわけでも友達がいないわけでもなく、悩みといえば中高一貫の女子校だから出会いが全くない、くらいの普通の女子高生だったのに、気づいたら介護されるような側になっていた。なぜ私だけがこんな目に合うんだろうという、過去に対しての恨みや終わりのない原因探し。本来、排他的でマッチョな思想の人間だったんだと思う。常に強者の側にいたから、負け慣れていなかった。周りはキラキラ女子大生やOLをやっていて、何もなかったら私は同じ側にいたはずだ、とのifにまた泣いていた。

いやらしい悲劇のヒロインは自分だけが辛い特別な人間だと思っているので、周囲に同情を求め、助けてもらおうとし、理解されないと攻撃し、あいつはわかってくれないと嘆く。
普通の人間全員が憎かった。というか普通に働ける精神障害者も憎かった。なんでお前らは楽に生きてるんだよ、ふざけんなという気持ちだった。思い出すと、自分が大変胸糞悪い。

しかし、大反省しつつも、そうなっても仕方なかったかなという思いはある。奪われた人生に対しての絶望や、一般社会から置いていかれて、決して目を向けられない周縁の存在になったことに対しての行き場のない怒りは大きかったからだ。


特例子会社のトイレで泣き崩れた

国から福祉サービスを受ける障害者になることを決意し、実際に就労移行支援に通所し、障害者雇用について情報収集している時期が一番自己否定に苛まれた。

就労移行支援:障害者の就職をサポートする通所型の福祉施設。
特例子会社:障害者の雇用に特化した子会社のこと。

特例子会社に見学に行った時のことだ。そこはクリーンで白い綺麗な監獄で、障害者の流刑地だと思った。やることは全て雑用だ。コピー取りと名刺作りと電子化作業データ入力とかそんな感じ。覇気のない、たぶん本社から左遷させられたんだろうなって感じの社員が淡々と説明してくれる。当たり前だけど給料はめっちゃ低い。

馬鹿にするのも大概にしろと思った。私は毎日、超簡単な雑用をルーチンワークでやるために産まれてきたのだろうかと思うと、今まで受けてきた割と高度な教育が全部無駄になるように感じられ、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。私はプライドが高いので、その空間に自分が属すること自体に耐えられなかった。精神障害者とはこういう扱いをされるものなんだと思い、自分がそうなったことが悲しかった。

障害を受容したのは「仕方ない」から

しかしそれでも、ずっと泣き暮らして絶望しているわけにはいかない。結局死ねない限り、生き続けるしかないので、障害を受容することにした。恨みつらみを綴ってしまったが、病気を受け入れて理解し、自己コントロールしていこうという覚悟はもうある。そのプロセスを辿ると一冊の本くらいになる(盛った)ので、ここでは省くが、私には他に言いたいことがあるのだ。

私は障害者としての自分で生きるのではなく、一部にやっかいなものを抱えた自分、くらいのノリで生きることにして、たいそう楽になった。別に「障害があってもこんなにできる!」とかアピールしたいわけでも、「障害があるのにハンデに負けずに頑張ってえらいね!」とか言われたいわけでもない。なぜ私が受容して自分と向き合い、治療する気になったかというと、仕方ないからである。病気に抗うのに疲れたのだ。決して前向きに、「障害も自分の一部で大切なもの!前向きに捉えよう!」となったわけではない。

私は障害者が前向きに生きようとすると、美談になって終わるのが本当に、気にくわない。

でも、美談にしたい気持ちはなんとなくわかるような気がする。一般人にとって障害とは理解できない、デリケートなものなのではないだろうか。直視するには耐え難いもの。ぎゅっと自分を真面目な気持ちにさせるから、関係ないと遠ざけたいもの。害か碍、がいと表記するかしないかなんて当人にとってはどうでもよいが、一般の人にとってみたらそれくらい繊細に扱わなければいけない話題で、触っちゃいけないと遠巻きに見られているような感じがある。だって私も、身体や知的障害者に対してそう思うから。

一般人にこの苦しみが理解できるわけがないし、私が身体・知的障害者を完全に理解することはあり得ない。ので、せめて知りたい、知ってほしいとは思う。でも、実際のところそれさえも難しいだろう。障害に関心がある人間なんて、当事者か福祉関係者以外は一部で、24時間テレビでああそんな人たちも一生懸命生きてるんだな、とふと思うくらいの認知なのではないか。そして、せめて知ってほしい、という思いこそがもはや弱者の証のように感じる。

障害者に機会をくれよ

知ってほしいという思いは本当だが、それよりも色々な機会を増やしてほしい。障害者をチャレンジドと呼ぶくらいならチャレンジする機会をくれよ。給料あげてくれ。

障害の受容というテーマの論文に、「障害者の多くは、競争力や生産力を中心とした価値判断に支配され、そこから落ちた自分を社会の中で劣ったものとして位置付ける」ということが書いてあった。それを脱するにはあるがままの自分を肯定的に受け取る、新しいアイデンティティが不可欠だと。

ここであるがままの自分を肯定的に受け取る、ということは、競争力も生産力もない自分を肯定するということだ。私の考えにしかすぎないが、生産力がないお前らは人並みかそれ以下の生活で満足しろ、と言われているように感じる。自己受容も大切なことだとは思う。だが、実際に「障害者枠」という雑用処理に押し込めて、挑戦する機会も与えられていない。(もちろんそのような企業ばかりではないが)人間は社会的な生き物だ。福祉サービスや職場、家族などの環境改善なしに、ありのままの自分を受け入れろというのは、随分酷な話じゃないですか?

もし障害がなかったら、を考えなくても良い社会を望む

障害がある、その事実は頑としてある。しかし、それだけで自尊心が損なわれるのは、私のメンタリティだけの問題なのだろうか。私は不幸なんかじゃない、と歯を食いしばって病気と闘って負けて、まあもう仕方ないからやれることしよう、と可能な限りニュートラルに状況を捉える術を学び、今の私ができた。そのことに悔いはない。しかし、障害は環境によって左右されるのだ。仕方ない、で諦めたことは山ほどある。恋人・友人・仕事・健康やライフプラン、結婚、子供。(最後の二個はまだわかんないけど)その全てが仕方ない、で済まされず、社会的な問題だと取り組まれたとしたら。また違った形の社会に対しての関わりがあっただろうし、この手にあるものはもっと多かったかもしれない。

障害が障害にならない社会を望む。普通の人と同じように機会が与えられる社会。今の障害者はいわば、昔のお茶汲みしか許されなかった女性なのだ。時間はかかったかもしれない。でも、社会は変わった、変わりつつある。前向きにはならないしなりたくもないが、ほんの少しの希望を後世に託したい。



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