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乾杯サンタ

 クリスマスの夕方、私は美容室の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
 店の奥から、予約時に指名していた佐藤くんがやってきて、お久しぶりです、こちらにどうぞ、と私を窓際の鏡の前にエスコートしてくれた。
「今日は、どのようにしますか?」
「いつもより少しだけ短く。あとは、同じで」
 私は簡単に希望を伝える。かれこれ10年、この佐藤くんに髪をカットしてもらっているから、細かい注文はしなくても良い。佐藤くんのカット技術やセンスを信頼していた。
 店内にはクリスマスソングが低く流れている。
ここ数日、仕事が忙しくて睡眠不足だった私は、髪を切るハサミの軽快な音を聞きながら、目を閉じていた。
「サンタクロースは本当にいると思いますか?」
 突然、私の耳元で、佐藤くんが言った。
 私が目を閉じているときには、絶対に話しかけてはこない人だと知っていたので、少し驚いて目を開けた。
「もちろん、いるわ」
 鏡越しに佐藤くんの目を見て言った。
 左手で私の髪を少しずつ掬い上げ、ハサミを入れながら、佐藤くんは頷いた。
「あなたなら、そう言うと思ってました」
 佐藤くんの声は、私にだけ聞こえるくらいのボリュームで、店内に数人いる他の客たちは、おのおの違うスタッフに髪をカットしてもらったり、パーマをかけてもらったりしている。
「今まで誰にも話したことはないのですが、僕」
 佐藤くんはハサミを持つ手を休めることなく「サンタクロースに会ったことがあるんですよ」
 そう言った。いつも通りの落ち着いた低い声だった。
「子供のときに?」
「いえ、ちょうど10年前、21歳のクリスマスに」
 10年前、私がこの店に通い始めた頃だ。あの頃の佐藤くんは、専門学校を卒業して、この店で働き始めたばかりだった。シャンプーをする係で、先生と呼ばれるこの店のオーナーがカットするときには、技術を学ぼうとする強い意志の見える目で、先生の背後からハサミの先を見つめている男の子だった。
 私は黙ったまま、鏡越しに佐藤くんを見た。佐藤くんは、量の多い私の髪の毛の先を梳きながら、その夜のことを話しはじめた。

 あの頃、美容専門学校を卒業してすぐにこの店に就職した僕は、技術が未熟なだけでなく接客も苦手で、オーナーに怒られてばかりでした。美容師には向いてないんじゃないかと真剣に悩んでいたのです。
 10年前のクリスマス、店を閉めたあとに片付けをして、僕はひとりでカットの練習をして、アパートに帰ったのは夜中でした。
 少しだけでもクリスマス気分を味わおうと、コンビニでワインを買って帰宅しました。当時は、玄関から部屋全体が見渡せる狭いアパートに住んでいたんでふ。
 ドアを開けたとき、真っ暗な部屋で何かが動いている気配がしました。えっ?と思いながら、玄関の壁にあるスイッチを押して、天井の灯りを点けると、パッと明るくなった部屋で、小さな何かが慌てたように部屋を横切り、ベッドの下に隠れるのが見えました。
 ねずみ? 僕はそう考えました。夏にゴキブリが出たことはあるのですが、それ以外の生き物を自分の部屋で見たことはありません。でも、大きさから、ねずみが頭に浮かんだのです。
 僕が玄関でじっとしていると、その何かは、テレビの後に隠れようと思ったのか、また動き出しました。
 僕は素早くスリッパを手に取り、何かに向かって思いっきり投げました。命中。野球をやってたので、コントロールは良いのです。
 僕は、恐る恐る部屋の中に入り、スリッパの下で倒れた何かを見ました。
 小さな人形。サンタクロースの赤い服を着た人形だと思いました。
「チッ、見つかったことは今までにもあるけど、スリッパを投げられたのは初めてだ」
 スリッパの下から、ゴソゴソ這い出てきた人形は、そう言って僕を睨みつけました。
「な、な、なに?」
「なにって、サンタクロースを知らないのか?」
 僕は疲れていました。幻覚や幻聴があっても不思議ではないくらい、約10センチのサンタクロースと会話する状況に脳が抵抗する力もないくらい、疲れていました。
「サンタクロース? そんなに小さいのに?」
「大きかったら、煙突からも、換気口からも、侵入できないだろうが」
 その小さな小さなサンタクロースは、僕が想像していた白いふわふわの優しい雰囲気は持っていませんでした。
「どうせ、ひげを生やしたでっかいジジイを想像していたんだろう。どいつもこいつも、情報に毒されて」
 彼にはひげもありませんでした。
「あの、なぜ、ここに? プレゼントをくれるんですか」
「プレゼント? クリスマスプレゼントは、親が用意しているって、その歳なら知ってるだろ?」
「はぁ。そうですよね」
 なんだかどうでも良くなって、僕はコンビニの袋からワインを取り出しました。とりあえず酔っぱらおうと思ったのです。ワイングラスに白ワイン注ぎました。天井の灯りが映る美味しそうな液体。
「飲みます?」
 僕が訊くと、サンタクロースはにやりと笑い、首を縦に振りました。
 小さな人に最適なサイズのグラスはペットボトルのフタしかなかったので、それにワインを注いであげました。ペットボトルのフタでも、小さなサンタが持つと丼を持っているみたいに見えて、僕は小さく笑いました。
「メリークリスマス」
 やっとサンタクロースが、サンタクロースらしいセリフを言って、ワインを飲みました。コンビニの安いワインを、目を細めて飲んだのです。
 立て膝で、ええ、本当にお行儀の悪いサンタでした、立て膝でペットボトルのフタからワインを何杯も飲みました。
「家に帰るの、遅いんだな」
 とろんとした目で、サンタクロースが言ったのは覚えています。
「あ、仕事が終わってからカットの練習してたんですよ。僕は美容師で」
 急速に回ってきた酔いにまかせて、僕は自分の仕事や将来の不安について話し始めた…と思います。いつの間にか寝ていました。
 僕は夢を見ました。この店で、この美容室で、女の人の髪の毛をカットしているのです。店内にはクリスマスツリーがありました。僕は、その人の髪を素早くとても綺麗にカットしてあげて、最後に女の人の顔についた髪の毛を払ってあげるのです。
「独立するのね。おめでとうございます」 
 女の人は満足気に微笑んで立ち上がり、僕の目を見て、そう言いました。それから「メリークリスマス」と、クリスマスカードを僕に手渡してくれました。カードには、2021と書いてありました。
 朝、目が覚めると、小さなサンタクロースは居ませんでした。テーブルの上に、空になったワインボトルとワイングラス、そしてペットボトルのフタがあっただけです。
 僕は、それから10年、2021年のクリスマスをとても楽しみにしながら過ごしました。仕事で挫けそうになるたびに、あの夜のサンタクロースと夢を思い出しました。

 佐藤くんは、話し終わると、ハサミを置いた。
 私の髪の毛は短く軽くなった。シャンプー台で髪を洗って、佐藤くんは仕上げのドライヤーをかけてくれた。最後に鏡を私の後頭部に持ってきて「いかがですか?」と訊く。私は「満足よ。ありがとう」と答えた。
 私は立ち上がり、佐藤くんの目を見た。
「独立するのね。おめでとうございます」
 佐藤くんは、うなずいた。
 イラストレーターの私は、毎年12月、自分が描いた絵のクリスマスカードを会った人に手渡す。佐藤くんにも、何年もカードを渡してきた。
「メリークリスマス」
 用意していたカードをポケットから取り出して佐藤くんに差し出した。
 佐藤くんは、カードを両手で丁寧に受け取り、サンタさんの絵と2021クリスマスと書いてあるカードをしばらく見つめていた。顔を上げた時、佐藤くんの目にはカードの絵の星が映っているようだった。
「ありがとうございます」
 佐藤くんは、泣き笑いのような表情で言った。

 佐藤くんの新しい店の連絡先を聞いてから美容室を出た。イラストレーターとして、サンタクロースの絵を沢山描いてきたが、今日ほどサンタを身近に感じたことはなかった。私の中にいるサンタクロースの体温を感じながら、デパートでちょっと高級な白ワインを買って、私は自宅マンションに戻った。
 玄関のドアを開けた瞬間、何かが、小さな赤い何かが、さっと部屋を横切ったのが見えた。
 

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