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一緒に暮らす、ということ

同居人と、冷戦のような数日を過ごしていた。

たまに、こういうことがある。
なんだか、ボタンを掛け違えて、ちぐはぐになったまま、数日を過ごす。

わたしは、気が済んだ頃にへらりと笑って、なかったことにしようとする。
こういうのは、どうせうまく理由とか話せないし、解決方法もない。
「アレをしないで」という具体的な解決方法が、いつも見当たらない。
だから、なかったことにしようとする。

同居人は「話し合おう」と言う。
先にも述べたように、解決方法があるわけではないのだけれど、
たぶん、わたしより「わかってほしい」と「わかりたい」という気持ちが強いんだと思う。
その生き方を、「ずるくない」とか「律儀」「真摯」というか、
はたまた「それほどの理解を求めるのは、こどもっぽい」と言うのか。
わたしにはわからない。


わたしは自分の気持ちを、他人に理解してもらえると思っていない。
それは、諦めているとか、ひねくれているとか、そういうつもりじゃない。
ごくごく自然に、そういうものだと思っている。

後押しが欲しいときは、
理解してもらえると思うものの一部を、共感度の高い友達に話したり、
共感してもらえなくても、聞き流してもらえる友達に話したり、そういうふうにしている。
同居人と話していると、「わたしは自分の気持ちを伝えるのがうまくない」とすら思う。

こんなに毎日、言葉を綴っているのに、と思うかもしれないけど
夜中に、答えのない自己完結のポエムを綴るのと
「このとき、わたしはこんな風に思いました」というのを、小学生の日記みたいな素直さでアウトプットするのは、やっぱり違うことだ、と思う。



嫌われたくない、と思っていた。

でもこの数日、ぼけっと過ごしながら
「この人は料理もするし、こういう顔が好きな人もいると思う。(おっさんだけど)
 白黒ハッキリしたいタイプで、思ったことを何でもクチにしちゃうけど、それはこの男が真摯に生きている証だと思えば、なんだかなかなか良い奴かもしれない」と、ちょっと遠目で同居人のことを見ていた。

わたしじゃない人と一緒にいたほうが、この人はしあわせかもしれない。
かつて、何百回もそう思い、自己嫌悪に陥った。

でも今回は、ぼけっとガムを噛みながら「まあ、そうだよなあ」と思っていた。
まあ、そりゃあ、わたしより、この人のことをしあわせにできる人は、いてもおかしくないよなあ、と。
悲観的になっていたのが嘘のように、すんなりと納得できた。
そうしたら、「そりゃあ、嫌われることもあるかもしれないなあ」と思う。



極端に、わたしが足を引っ張らなければいいや、と思う。

「わたしがいるから、アレができない」ということが
そりゃあ、一緒に住んでるので少しくらいはあると思うけど
その数が、増えなければいいと思う。
いま願うのは、それだけだ。

一緒にいるっていうことは、当然迷惑をかけるし、当然邪魔なときもある。

ひとりで部屋の掃除をしながら「またコントローラーが床に置いてある」とわたしは、10回に1回くらい、イラッとする。
ほんとうにひとりだったら、同居人が帰ってくる頃に忘れているわけだけど、
その場にいたりすると、イラッとした顔を見せてしまう。そういうものだと思う。
もうそれは、仕方のないことはないか。

コントローラーを床に置かないよう、矯正してもらうこともできるけれど
わたしだって、そんな細かいところ矯正されたくないし、したくもないし、
あんまり色んなことを気にしない、に限る。

きっとまた、ボタンを掛け違える夜も、訪れる。
話し合いが終わったあと、「1ヶ月後も同じことを話しているかもしれないけれど、こうやって毎回話し合うしかない」と言ったこの人は、なかなか立派だなあ、と思った。



どうか、あなたの暮らしが健やかであることを願う。

わたしは、あなたが他人であることを、忘れない。
ついつい甘えすぎてしまうけれど、そもそも別の個体で、別の夢や目標があって
たまたま、不甲斐ない貧乏だから、一緒に住んでいるだけで。

わたしは、あなた自身よりも、わたしのことが大切だ、という生き方をするし、
その分、あなたにも、あなた自身を大切にして欲しい。
クチは悪いくせに、けっこう気を使う人だから
それでも、わたしは勝手にすこやかに生きるから
だいたい、わたしたちの「思いやり」の半分は、相手に確認をしない「思い込み」の、半ばファンタジーみたいなものだから。

ファンタジーを介さない、自分の感情を大切にしてくれよ。

あなたとわたし、という個がすこやかであることが
最終的な、暮らしのすこやかさになれば、わたしはそれがいちばん、嬉しい気がしている。




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