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ぴゃーっと書けたら、

noteの連続更新が180日を越えた。

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今までは、更新ボタンを押すとぴょこんと現れるこの通知の、数字が増えているのをぼんやりと見ているだけだった。
180日が、約半年になることを知って、「なんだかすごいなあ」と
やっぱり、ぼんやりと思っていた。

無職になる直前から始めた、noteの毎日更新。
もうすぐ無職になって半年なのか、とか、もう半年か、とか、そういう焦りもあんまりなかった。
でも、半年ってすごいなあ。
わたしはやっぱり、ぼんやりしている。

ぼんやりしながら、漂うように「続けること」だけに執着してきたから、今日まで来られたような、そんな気もしている。

この、noteの「投稿ボタン」を押したときに表示される通知は、どうやら「0時〜24時」を一日として計算しているようだった。
連続投稿をしようと思い立つ前に、その仕組に気づいた。
自分の意図とは別に、「連続更新」と表示されたり、連続が途絶えたりしている。
わたしの中でのいちにちは、「寝てから、起きるまで」だから。
1日の10時に記事を書いたあと、2日の25時に書くと、連続更新にはならない。

家で、ひとりで記事を書き続けるわたしにとって、この「連続更新」を褒めてもらえることは励みだった。
無職で他に予定もないし、書き始めた当時はほとんど外にも出られなかったから、この「連続更新」を守ってみよう、と決めた。

ある日わたしは、「今日このあと、外に出られないか?」と友達から連絡をもらった。

その日はたまたま、朝起きられなくて、ようやく煙草を吸い始めたのは午後になってからだった。
どうも、身体が重い。
今日は、洗濯もしたいし、このあとシャワーも浴びたい。

昨晩のことを、思い出す。
昨晩わたしは、24時より前にnoteの投稿を終えている。

ということは、今日は24時までに新しい記事を投稿しなければ、「連続更新」が途絶えてしまう。
23時、できれば22時にはパソコンに向かいたい。

このあと外に出てしまったら、22時の前にパソコンの前に座れるかは、ちょっと怪しい。
でももし、家まで来てくれるのであれば、友達が来る17時より前には、なんとか1本くらい書けそうだ。

「家まで来てくれるのであれば」というわたしの回答に対し、「それじゃあまた今度でだいじょうぶだよ」と回答があった。
申し訳ないな、「早起きできていればな」なんて思ったけれど、早起きは嫌いなままおとなになりたかったのだから、いまさら後悔したって仕方がない。

わたしは「出掛けもなくなったし、友達も来なくなったよ」、と同居人に告げた。

彼は、ほがらかに笑った。
別にいいのに、と言って。

「このあと記事をぴゃーっと書いて、遊びに行ってきてもいいんだよ」

そもそも、「あなたの存在有無」で遊びに行くかどうかを決めているわけではない、というのが大前提なので、大前提の時点でこの言い回しは好きじゃないんだけど。

それよりも、びっくりしちゃった。
ぴゃーっと書いて、ということに。

同居人からしたら、そういうふうに見えているんだろうな。
いちばん近くにいる人に、「平気そうに毎日記事を書いている」と思われているならば、誇らしいと言うか、作戦成功、という気もするけれど。

(ぴゃーっとは、書けないよ…)

口に出さなかった。
出せなかった。
驚きすぎて、なんと答えたかすら、覚えていない。
でも、わたしはそう思った。

記事を書くって、かんたんそうに見えるんだろうな。

1記事に掛かる時間は、最短で20分強から、長くて1時間半。
書く内容によっては、1時間半あれば「記事2本とピアノ日記」の計3本を作ることができる。
でもそれは結果論であって、「1時間半」という時間であれば、「できれば、記事1本とピアノ日記やりたいな〜」という目標を立てつつ、結果的には「記事1本書ければ大成功」といった見立てになる。
半年も続けてきたので、時間の見立ては、だいたい外さなくなった。

なにも予定のない日は、だいたい夜に書く。
たまに、日中にやる気を出せることもあるけど「あとでもいい」と思ってしまったら、腰が重い。
そういうときは、筆も重い。

今日は、24時までに更新しなきゃいけないな、という日は、18時くらいから時計を睨んでいる。
24時を過ぎてもいい日は少しだけ気楽だけど、23時くらいまで「やらなきゃなあ」という気持ちを引っ張って、非生産的な時間を過ごしてしまったりもする。

日中に書いているときは、「早起きしてやる気が出てしまったとき」か、「帰宅時間が0時を過ぎることが確定している、またはその可能性がある」という日だ。
家にいたとしても、終電が0時以降の友達が遊びに来る日、というのも日中に記事を書くようにしている。

そういう日は、記事を書く時間を確保できるよう、1時間とか2時間とか、早く起きる。

前日の更新が25時とか、26時だったりすると、自業自得の絶望に襲われる。
いま書いたのに、また書かなきゃいけないのか…
場合によっては、前日の更新分と併せて、翌朝書く内容を考えている。
「寝て、起きる」だけでは、記事の内容にするような出来事は、ほとんど起きない。

どれだけ早起きして、あれこれやっていたって、記事の内容が「降ってくる」とも限らない。
ささいなことをメモしながら、家事をしながら、煙草を吸いながら、わたしは考えている。
パソコンに向かう前から、わたしの勝負は始まっている。

ネタを探し、怠惰な自分と対峙する。

体力と時間勝負になることもある。
書くことにも体力がいる。
体力の必要な記事は、時間もかかる。
予定のある日中、時間制限のある中で書くには適さない、という内容もある。
早起きが得意だったら解決する内容ではあるのだけれど…

それでも同居人からしたら、「いちにち1時間とか2時間パソコンの前に座っているだけ」なんでしょうから、難しくは見えないのかもしれない。

さくっと終わる日もあるので、同居人からしたら、その1時間とか2時間は、一瞬なのかもしれない。
記事を書く、と言って部屋にこもったくせに、30分に1度くらいのペースで、煙草を吸いに出てくるわけだし。

かんたんそうに、見えるのかもしれない。
毎日のことだし。

180日間続けて、その重さは軽くなったような気はしている。
パソコンに向かうのが、少しだけ上手になったような気がする。
それでも毎日「今日も記事書くゾッ★」と前向きな気持ちで、いられるわけではない。
もちろん、そういう日もある。
でも、基本的には「ひねり出している」のだと思う。

ネタになればなんでもいい、というわけではない。
その先に、わたしの魂の一部が入らなければ、書きたくない。
書きたくないことは、書きたくない。
どんな記事でも、わたしは選んでいる。

実際、ぴゃーっと、っていうのは、どこにもないんだと思う。

写真なんてシャッター押すだけでしょ?なんて言ったら、写真家さんたちからクレームの嵐だろう。
なんとなく、異業種の人がしていることは「ぴゃーっと」に見えてしまう。
完成までの、過程とか工程がわからないから。

だから、時々見せてもらう。

写真を撮ったあとの編集作業とか、
漫画を描いているときの様子とか。

写真については「色がなんか変わった?よね?」ということしかわたしにはわからなくても、編集している本人はまじめだし、確固たる正解があるわけではないらしいので、なんだか途方もない作業だった。

漫画に関しては、ただの丸が人の顔になっていくことに、びっくりした。
「漫画家は、凄腕のブラックジャックなのだ!」と言って、わたしたちは笑いあった。
今更だけど、1話の中で、何度も同じ顔の人を描き続けていることに気づいたときには、なんだか気が遠くなった。
さっきと同じ人を、また描き続けている…

だから、わたしは気をつける。
異業種の人の工程を、詳しく理解することはできないけれど、「工程があるのだ」ということは、忘れないようにしよう、と思っている。

わたしが、ぴゃーっと記事を書けないように、同居人の料理にも手順があるのだろう。
いつも、ぼけっとしているとごはんが出てくるけど、思い出したときには、きちんと感謝しよう。

以前、「才能とは、他人よりほんの少し得意なもの」というようなことを言っていただいて、なんだかしっくりきた。

書くことは、ほんの少し得意かもしれない。好きかもしれない。
でもそれは、「無尽蔵に生み出せる」ということではない。

ぴゃーっと毎日書けたらよかったのかもしれないけど、
ぴゃーっとできるようなことなら、毎日続けなくてもいいような気がする。
そうじゃないから、わたしは毎日、ひねり出して、紐解いている。

スーパーマンみたいなふりをして、生きたいと思ったこともあった。
でも、スーパーマンにはなれなくて、
ごくごくふつうの人間が、地を這うように、「続けて」というよりも「しぶとく諦めずに」ここまで来て、書き続けて、息をしている。

わたしが書いているのは、そういう、平凡な物語だ。




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