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【小説】ホワイトソースを混ぜる夜

「よいしょ」、思わず声が漏れてしまった。
大きなエコバッグには、何でも入る。
その代わりにずっしりと重たくなり、わたしの腕に食い込んでくる。

部屋の灯りをつけて、手を洗う。
今日は早く帰ってこれた、と思うのと同時に、色んなことを後回しにして、逃げるように帰ってきた会社のデスクを思い出し、気が重くなる。
「いやいや、違う」
また、つぶやきながら、慌てるように手を洗い、すべてを流し落とした。

一人でいると、独り言が多くなる、と誰かが言っていたけれど
一人でいれば、全部が独り言になってしまうんだから、仕方ない。
仕方がないことなのだ、と思いながら、わたしは言葉を飲み込んだ。
意識してしまうと、言葉はこぼれ落ちなくなる。不思議だ。

その不思議さの相手をすると、時間だけが経ってしまう。
わたしは、エコバッグの中身を広げて、冷蔵庫に入れるものと、そうでないものを分けてゆく。

今日は、美味しいと評判のパン屋のバケットを買うことができた。
時間もあるし、グラタンでも作ろうと思っていたのだ。
ゆっくり時間をかけて、ホワイトソースを煮詰めよう。



毎晩、料理をするようになって、3ヶ月ほど経つ。
今までは、割引になったお惣菜を買ってきたり、袋詰された野菜を買ってサラダにしたり、スープだけ作ったり、「料理」と言えるか曖昧な、そういうものを食べる暮らしをしていた。お弁当を買う日もあった。
近頃のお弁当は安いし、栄養のバランスも考えてある。
自炊するより、よっぽどコストパフォーマンスがいい。
そんな風に思っていたし、料理をする今でこそ断言できる。
自炊するより、コストパフォーマンスがいい方法なんて、たくさんある。
そしてそれは、悪ではない。それも、わかっている。

些細な出来事の積み重ねだった。
SNSに流れる、手作りのお弁当、今晩の食卓
わたしとは関係のない世界の出来事だとわかっていたが、少しずつ、心臓を蝕まれるような気持ちだった。
料理をしないわたしが、何か欠陥品であると、そんなレッテルを貼られているような錯覚に陥っていた。

「あいつのさあ、奥さんの料理がすっげえうまくって」

智秋のセリフに、悪意がないことはわかっていた。
でもその悪意のなさを主張するより先に、わたしの心臓は決壊した。
智秋は、ただ、今日ご馳走になった食事が美味しかったと、わたしに話してくれているだけだ。
でも、わたしは傷ついてしまった。
「うちのは、料理ができない奥さん」と言われたような、気がしてしまった。
智秋はそんなことは言わない。わかっている。
わかっているけれど、決壊した心の痛みはどこへ行くのだろう。なかったことに、すればいいのだろうか。
そうだとしても、そんな風にうまく操作できない。
決壊した心からは、どくどくと止め処なく、感情が溢れ出し、わたしのすべての動作を停止させた。

「おれ、そんなに傷つくこといったかなあ」

その悪気のない言葉は、決壊したわたしの心を粉砕するには、充分すぎてしまった。



つまるところ、わたしの料理は意地みたいなものだった。
意地みたいなもの、わたしは欠陥品ではない、わたしだってちゃんとできる。
そんな風に、思いたかった。

「そんなに毎日頑張らなくてもいいよ」と、智秋は言ってくれた。
「朱美にだって仕事があるんだし、他の家事も朱美のほうがしてくれてるじゃん」
「うん。でも、頑張ってみたいから」
そう答えるので、精一杯だった。



今日は、ホワイトソースを作る。
弱火でゆっくりとバターを溶かし、溶け切る前に、薄力粉を混ぜる。
弱火でも気を抜くとすぐに焦げてしまうので、しっかりとかき混ぜてゆく。

ぼそぼそとした塊が、少しずつ混ざり合って、ふつふつとしてくるさまは、何度見ても不思議だ。
最初は、終わりのないような気持ちがしているのに。
わたしは、永遠にこの塊を混ぜていなくてはいけない、そんな錯覚に陥っていても、ぼそぼそとした時間は絶対に終わる。
しっかり混ぜていれば、絶対に焦げない。
ホワイトソースは、手間と時間さえしっかりかければ、絶対に失敗しない。

ぼそぼそとしたのが終わったら、牛乳を加える。
そして、ぐるぐるとかき混ぜ続ける。
なんだか、魔女にでもなった気分だ。呪いをかけるみたいに、ずっとフライパンを混ぜ続けている。

いくつかあったダマも、次第に消えてゆく。

「だいじょうぶ、全部消えるから」

焦ってしまう気持ちを抑えるために、またひとりつぶやく。
大丈夫、智秋が帰ってくるまで、時間はたっぷりある。
それに、晩ごはんができていなくったって、文句を言う人じゃない。わたしは、そういう人と結婚した。
「だいじょうぶ」、わたしはもう一度つぶやく。

そうして、気づけばひとつずつダマが消えてゆく。
いろんな感情も、こうしてひとつずつ消えてしまう。
傷つき、決壊したわたしの心も、少しずつ、でも確かに修復されていった。いまは、同じ痛みを抱えたりしていない。
わかっている、大丈夫。
大丈夫、とつぶやきながら、ホワイトソースをかき混ぜる。

少しずつ、とろりとしてゆくフライパンの中身を、わたしは静かに見つめる。
さっきまであんな、ぼそぼそだったのに。
どうして、物事はこうやって、移り変わってしまうんだろう。
それは、救いでもあり、どうしていつも、寂しさを伴うような気がしてしまうんだろう。

あの日は確かに、苦しかった。傷ついた。不安だった。どうしようもない気持ちだった。
でも、あの日のわたしはもういない。
わたしはもうこうして、時間を掛けてホワイトソースを作ることも、できる。

「そうだよ、大丈夫だよ」

3ヶ月間、毎晩料理をした。
仕事で帰宅が遅くなってしまう日も、わたしはキッチンに立った。
本当に意地のようだった。
「今日は休みなよ」という言葉に頷いてしまったら、二度とキッチンの前に立てないような、恐怖のようなものとも戦っていた。

そうだよ、もう大丈夫。
もう少ししたら、智秋と外食をしよう。
もう少しわたしがいろんなものを許せたら、とびきり美味しいものを食べよう。

ホワイトソースは、もうずいぶんをとろみを帯びた。
もうすぐ仕上げだ。

「大丈夫」

とろりとしたホワイトソースは、わたしの独り言を飲み込んで、
フライパンの中で、まどろむように揺れている。

やさしい香りがふわっと漂い、
かけた手間暇のひとつずつが、そっとわたしに寄り添ってくれるような気がした。



photo by @TripGirrrrl




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