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僕だけのさびしさ

さびしくてたまらないとき、君を抱きしめることを辞めた。

「今日は帰れない」と連絡がきた夜に、このエッセイを書いている。

同居人は、ときどき帰ってこない。
そのたびに電話をかけていて、深夜の執筆中のわたしを苛立たせた。
わたしは、執筆中に声をかけられることをとても嫌う。

30をとっくに越えたおとなが、深夜にどこにいようと構わないのだ。
愛があるなら、「帰れない」の一報だけ欲しい。
「帰れなくてごめんね」と、言われることも嫌いだった。
べつにわたしは、君がいなくても平気だし、謝られる対象なんかじゃない。

わたしがいなければ、「ごめんね」なんて言わせずにすんだのに。と思うことに疲れた。
そんなふうに思わなくていい、というのはわかっている。
元気なときにはきちんとそうできる。
でも、家にいるときは飾らずにきちんと落ち込んでいる時間もあるのだ。

今日は電話もかかってこないし、「ごめんね」も言われなかったので気分がいい。
急にひとりになった夜の時間を、どう過ごそうか考えている。

別にひとりだろうとふたりだろうと、わたしたちは勝手に過ごす。
それなのに、ひとりに浮かれる。

ひとりでもふたりでも構わない、と思えるのは
たぶん基本がふたりだからだろう、ということには気づいている。

「ルールに縛られているから、自由があるんだよ」
みたいなことを、昨日言っていた。
たぶん、そうだと思う。

中学生のころ、生徒会は副会長の茜先輩が仕切っていた。
清水会長は、いつも困った顔で笑っているような印象だった。
「茜先輩が会長になればよかったね」
ひとつ年下の副会長だったわたしは、母に言った。
「清水くんがいるから、茜さんは自由にできているんだろうね」と返されて、なるほどなと思った。
なるほど、そういうことはよくある。
いまのわたしたちの暮らしみたいに。

ひとりの夜になにをしようか考えて、有料エッセイを書くことにした。

同居人が家にいると書きづらい、とかそういうわけではない。
ただ、最近は書きたいネタを拾う能力と、それを書き上げる気力がうまくリンクしなくて、
メモはあるのに「書くことがないなァ」と思う日々だった。

せっかくだから、というのも正しいかわからないけれど、
先月末に「7月は有料エッセイもたくさん書きたいです」と言ったフラグを回収しようと思っている。

エッセイを有料にする理由は大きく分けてふたつで、
ひとつは、誰かを傷つけそうな内容のとき。強い言葉を使うとき。
もうひとつは、特定の誰かについて書くとき。その誰かを特定して欲しくないとき。
そういう、内緒話をするのに有料エッセイを使っている。

というのが当初の目的ではあったのだけれど、最近はこうして、手紙みたいにつらつら書くことそのものがおもしろいなあ。と思っている。
あんまり、読みやすさとか伝えたいこととか、気にしていない。

当初は「有料でしか書けない内緒話をしてみよう」と思って有料エッセイを始めてみたんだけど
そんなに都合のいい内緒話なんて、そうそうなかった。
内緒話ってほんとうは、友達に話せればそれでいいんだ。わざわざエッセイにする必要ない。

でも書きたいって不思議だ。
今日は書いてみよう。
わざわざ、有料で。隠して。言いづらいことを
言葉の海を泳ぐように、BGMをマトリョーシカに設定してから飛び込んだ。

同居人がいない夜に、家族のことを書こうと思った。
わたしらしくていい、と思う。

結局、内緒話は同居人のことになってしまうことが多い。

このエッセイは、同居人との共通の知人もたどり着ける仕様になっている。
かつて、同居人の妹から「いいね」をもらったときはヒヤッとした(文句を書いたエッセイだった)。

同居人の個人的な部分をおおっぴらに書くのは申し訳ないし
良い思い出を書くのは恥ずかしくて憚れるし
文句を書くと言葉尻がキツくなって攻撃的になってしまう。

「こんなにイライラさせられるのは君だけだ」みたいなことを言われて、落ち込んだことがあった。
一緒にいないほうがいいんじゃないか、と思った。

でも結局のところ、お互いそういうことだった。
友達だったらうまく気づかえるのに、家族にだけはうまくできない。
甘えを消せなくて申し訳ないなァと思うし、やっぱりお互いさまなのだ。
そういう、身の丈なのだ。我々は。



「ときどきね、誰かにいてほしいと思うことはあるよ」

ひとり暮らしだったり、恋人のいない友人にそう言われることがある。
逆にわたしは「コイツさえいなければ」と思うことが多い。ないものねだりだ。
だって、「いなければ寂しいし、いると煩わしい」のが恋人だ。
もう何年も前に、江國香織が言っていた。
わたしの教科書にもそう書いてある。

結局のところ、ひとりの寂しさか、ふたりの煩わしさに耐えるしかないのだ。
と、いつもこんな話になる。
そんなこと、おとなになったわたしたちはみんなわかっている。

この世の中には、恋人のことをずっと「推し」みたいに愛せる人もいるらしいけど、わたしにはむりだった。
むり、と言えるくらいがちょうどよかった。
身の丈に合っている。

これから同居人と何年過ごすかわからないけれど、
終わりがきたときに「半分くらいはうざかったな」っていうので、ちょうどいい。
最近はそんなふうに納得できるようになった。

ずっと「推し」と思っているような深い愛がないわたしは、だめなやつなんだ。と思っていた。
でも、だめなやつでいいんだ。と折り合いがついた。


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