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やさしい順路
ああ、やっぱり。と安堵する。
酔うように、心地よさに溺れてゆく。
ああ、やっぱり弾いたり書いたりしているときはしあわせだ、と。
*
最近、「毎日」の括りをゆるやかにして、
2日に1回、まとめて2日分の更新をしたりしている。
それでいい、と思えたからだ。
それでいい。
それでよくないかどうかを決められるのはわたしだけで、
というか、周りはそんなこと気にしていないというか、どうでもよくて
わたしが、心地よく座れる場所を探しているだけだ。
心地よく座れる場所。それは、「長く息ができる場所」だと思う。
周りは、「えらいね」と言う。
頑張っていて、えらいね。と
「そんなことないよ」と、わたしは言う。
でも、褒められるのを卑下しすぎるのはよくない。
と、最近友と語り合ったあの夜のことも、忘れていない。
こっちがへりくだっちゃうと、褒めたほうも気まずくなっちゃう。
だからすなおに「ありがとう」と言う。
言わなければならない。
*
あやめしさんの言葉に安心したことをいつか書きたい、と思っていた。
ようやく書ける。
1000日連続更新を達成するまでは、100日毎の節目にその時の気持ちを書き綴った記事を投稿していたのだけれど、1000日を超えたら別に100日がどうとか、もうないよね。長年付き合ってる恋人と1ヶ月ごとの記念日をお祝いしなくなる感じと似てるよね。
わたしのnoteの連続更新は、870日くらい。たぶん。それくらいだったと思う。
わたしも、100日とか200日とか、1ヶ月とか3ヶ月とか1年のときには
何かを大切に書いていたような気がしている。
いまはもう書かない。
それを、情熱を使い果たした、というような気持ちでいた。
それがなんだか、後ろめたかった。
でも、「長年付き合っている恋人と1ヶ月ごとの記念日をお祝いしなくなる」と言われて、すごくスッキリした。
わたしは共に暮らす男を、恋人と上手に呼ぶこともできなければ、お付き合いしているという設定だったときにも、1ヶ月記念も1年記念も祝ったことがなかった。
あのころは恥ずかしくて、バレンタインのチョコレートもうまく渡せなかった。
「え、べつにいらないよね?」なんて言って。
そういうイベントを大切にする人だっていうのも知らなかった。
わたしは最初から特別を恐れ、大切なものを大事にできるような人間ではなかったのだ。
いまようやく、大切なものを掴もうという気概が出てきた、ような気がしている。
それを、良い変化と思いたい。
思いたいけれど、「ありがとう」のあとには「でもね」と続いてしまう。
わたしは足りない、と思っている。
慣れて、当たり前になった日常を、繰り返すことだって容易ではない。と思っている自分も真実なのに。
「簡単じゃねぇんだぞ」と、唇を尖らせているのに。
「でも、もう少しね」と、友達の前だけでは、情けない顔をする。
*
そうしてたどり着いた、甘味料さんのnoteを読んで、すごくしっくりきた。
「一年半以上続けたnoteの連続更新を中断することにした」から始まるエッセイを、「すげえ」と思って読み出した。
中断する。
わたしがいまもなお、できないこと。
最近は食の世界と繋がる為の苦し紛れの武器になっていた。「○日くらい一度も欠かさずスイーツの何かを書いてますよ〜」ってさ。
これだった。
すべてはこれだった。
毎日書くことは、
「音楽を辞めた人」というレッテルを貼った、わたし自身への最後の足掻きだった。
「もう1度音楽をやれば?」と言ったひとは、「君が辞めていないと思っていたから、もう1回やればって言ったんだよ」とそののち語ってくれた。
でも、「もう1度」っていうのがどうしても引っかかる。
もう手放したひとなのだ。わたしは。あなたとは違う。
そう思ってしまうのは意地汚いだろうか。
「だからみんな辞めちゃうんだよね」と友達は言った。
むかし一緒のステージに立ったひとで、友達はまだ歌い続けていた。
わたしのことは、どう映っているんだろう。
「辞めちゃったひと」というのは、きっとわたしのことだろう。
もしかしたら、わたしは「辞めた」に属していないから、笑って語ってくれたのだろうか。
いくつかの思いはよぎったけれど、尋ねられなかった。
なんと言われても、たぶん嬉しくないような気がしていたから。
わたしはずっと、言い訳みたいに書いている。
“音楽を辞めて”、そして直後にうっかりと無職になってしまった自分を肯定するために。
「仕事始めても書いてんの、えらいじゃん」と友達は言うけれど
違うんだ。怖いんだ。手放すことが、
手放すには、正当な言い訳や順路みたいなものが必要だという気がしている。
順路、わたしはいまそれを探している。
でもこれからは堂々と仕事として関わっていけるのだから。例えば翌日のプレゼン準備がある時なんかはnote投稿に引っ張られずに仕事を優先したいなと思って、切るきっかけを探していた。
もう、格好良いなあ。息が止まりそうなくらい
わたしが探しているのもこれだった。
美しい順路。
順路、なんて御本人に言ったらよくないかもしれない。
「どうぞ」と用意された道ではないだろう。
見つけて、掴み取ったんだ。
だから、格好良いなあ。すてきだなあ。
*
わかっている。
もうぜんぶ、わかっている。
安心しているわたしも
安心したいわたしも
卑下したいわたしも
褒めてくれる友達も
記念日を重ね過ぎたことも
順路を探していることも
そしてまだ、到達には至っていないことも
そのことにどこか焦っていることが、自分への卑下に繋がっていることも
よく、わかっている。
「すべてを失うには、早すぎるから」という歌詞を書いたことがある。
きっとわたしは、投げ出しがちだから、こんな歌詞を書いたんだと思う。
ぜんぶ飲み込みながら
わたしは、安心したり怒ったりしながら、旅を続けるつもりでいる。
なんとなく、投げ出した先では安心して眠れない。
そういう予感ばっかり、当たるような気がしてならない。
(この予感がいつか消えれば、すべてを放り出して眠ろうと思っている)
ジョウネツ。
果たして、そんなものがわたしにあるだろうか。
※now playing
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