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それぞれのはなまるうどん

「たまには、外食したら?」

冷蔵庫に、常備菜を詰め込みながらそう言うのは矛盾ではないだろうか、と思うのだけれど
「自分が作ったもの以外も食べるべきだ」「買い食いをしたまえ」と、なぜだかいつも言われる。
わたしとしては食べるものはなんでもいいので、冷蔵庫のストック更新がされず5日くらい経つとようやく「ちょっと飽きたな」と思い始める。

今日も帰れば、大根のみぞれナントカとかいう創作料理と、小松菜の漬物、にんじんのナムルが残っていたはずだ。
食べるものはなんでもいい、家で食べればタダ。それにごはんを食べるときは、ぼけえっとアニメを見るのが好きだし、食べ終わったあともぼけえっと(あるいはソファーに倒れ込んだり)したいし。
ひとりの外食って気が進まないっていうか、必要がないというか
カフェに行くことだけは積極的に取り入れているので、ごはんまで外で食べたら破産するし
そもそも必要としていないのだよ外食は。別に料理にも疲れてないし。人の作ったものを恋しいと思うような感覚もないし。うちの飯はウマイ。

などと普段は思っていて、これは本当に偽りないのだけれど
ときどきふらあっと、惹かれてしまったりするのが不思議だ。
今日はもう、朝から負けていたかもしれない。
どうしてもその懐かしいフォント、オレンジの看板を見つめてしまうわたしがいた。

店の前まで言って、メニューを見て、
帰ろうかと思って、だって今日は昼間にタリーズでケーキ+甘い飲み物っていうコンボを決めたし
いやでも腹減ったなァ。
っていうか食べたい。
食べたいぞ。
はなまるうどん。


むかしはよく食べた。
カレーうどんはいまでも好き。
っていうか、うどんが好き。
八宝菜も、麻婆茄子も、チキンのトマト似も、冷蔵庫のおかずは、だいたいうどんにかけて食べちゃう。
相模大野という土地柄もよくなかっただろう。
町田で過ごした時間を思い出し、なんだかいろいろ懐かしくなってしまって
というのは建前だ。腹が減った。
腹が減って、はなまるうどんの引力に今日は負けることにした。

いいんだよ、たまには負けたって。
むしろこれは負けというよりも、発生した強い引力に”従った”結果であり
わたしは日々、自分の持つ強い引力ーーー言い換えれば”欲望”ってやつを探している。
「好きなように生きる」「好きな自分でいる」なんて言葉は溢れているけれど、「じゃあお好きにどうぞ」って言われて、やりたいこと100個書けとか、休日にやりたいこと10個やれとか、なかなかできないのが現実だって、もう気がついている。
今日の欲望は、はなまるうどん。

店内に入ってすぐ、野菜のかき揚げのその分厚さに感動する。
ああ、変わんないなァって
年を取ると、変わらないことについつい安堵してしまう。
お稲荷さんも食べたかったけれど、今日は明太子おにぎり
あと、温玉ぶっかけうどんの小(温)を選んで席に着く。

はなまるって昔もっと安かったよなァ、などと思ってしまうけれど、
こんなに食べて680円は有り難い。

世の中は、食料品も光熱費もぐんぐん上がっていくのに、そういえば飲食店ってなくならないのはスゴイ。
もちろん、個々を見れば潰れたりとかあるのだろうけれど
例えば、公衆電話とか、写真を現像できる場所とか、そういう圧倒的にぐんと減ったものもある中で、飲食店はそうではない。
やっぱり食べることって大事なんだよなぁ。
海の上でいちばん強いのって、航海士でも医者でもなくて、たぶんコックだ。

向かいの席は親子連れで、小さなフォークで何か揚げ物を一生懸命さしている。かわいい。
隣の席は男のひとで、大きなサイズのうどんだけがドーンと、トレイの上に置かれていた。
次の隣の席も男のひとで、やっぱり大きなサイズのうどんがドーンだった。なんかイイ
わたしみたいな女ひとりっていうのもいて、うどんと、小皿に乗せたおかずを、大切そうに食べていた。

はなまるうどんは、うどんも美味しいけれど、今日食べたらおにぎりも美味しくてびっくりした。
コメがうまい。
コメと天ぷらだけでもハッピーだったかもしれないと思うと、可能性は無限大だ。
お肉がたくさん乗っているうどんなら、もっとごはんみたいな感じもあるし、
今日のわたしの組み合わせだって、なんとなくうどんが主役みたいな顔をしていたけれど、コメのおかずがうどんという気持ちでもよかった気がする。

数多の可能性がうずまき、わたしはひとり考える。
なんていうか、この小さなお店の中にもそれぞれの答えとか、晩ごはんがあるのだなァ。などとしみじみしてしまう。
好きなものを食べるという当たり前。
「好きなもの」ってなんだろう。
「好きなもの」って毎日食べたらいけないのかな。
「好きなもの」と「食べたいもの」はちょっと違ったり

いやはや何より、はなまるうどんという世界の中でも「好きなもの」とか「食べられる量」が違うのに
みんな同じ「ごはん」というカテゴリで
一日3食が正しいと定義づけられていたりして
なんていうかその当たり前って、なかなか難儀だよな。
適切ってみんな違うし、毎日違うという柔軟性を、容易く忘れ過ぎだ。
食べたいものも、食べられる量も人それぞれ違って、その人の中でも毎度違ったりする。
今日、醤油をどばっと追加したわたし(や隣の人)は、明日になったらそうしないかもしれない。
毎日醤油をかけすぎたらよくない気がするけれど、たまにだったらいい気がするし、それを「醤油かけすぎだよ」って言うのは絶対に違う
むしろ「血液検査をしたら、もっと味の濃いものを食べたほうがいいって言われてビビった」というケースもあるらしい。
常識って儚い

身体を形成する子どものころはそうじゃないかもしれないけれど、おとなになったわたしたちは、ある種「ウマければ良い」ってのがあって
もちろん気遣うべき点はいろいろあるだろうけど、それって人によって違うしね。
たくさん食べたほうがいい人と、少ないほうがいい人があって
それが「心に良い」のか「身体に良い」とか、これがまたイコールじゃないから難しい。

今日は、「それぞれのはなまるうどん」というタイトルがついていると思う。

久し振りにひとりで外食をして、たくさんのメニューから食べたいものを見て、暇つぶしにあたりを観察して
今日聞いてきたのが「発達障害は才能である」という講演だったので、「当たり前」と「それぞれ違う」っていうのを、噛み締めていた。
「同じ人間」という言葉と、「ひとりひとりみんな違う」というのを、もっと真摯的に使い分けていきたい。

世の中って、人間って、オモロイ
講演を主催しているミツルさんとは、結果的にそこに帰着することが多い。

オモロイって思えることは、なかなか体力が要ることで
わたしは鍼灸マッサージの施術ベッドの上で、息を吹き返しながら「オモロイな」と思えることを有り難く思っている。

これからも
息の深さと健康を最低限しっかり握りしめながら、オモロイ世界を、それぞれの何かを
気遣う心と素直な衝撃を忘れずに、少しずつ触れて、紐解いてゆくのだ。




講演会の予習で書いた感想文
やさしい本、全人類向け


みんなそれぞれ違うのに
みんなができる逆上がりができないことに、今でも震えている話


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