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だいじょうぶ

夜、ゴミを捨てに行った。

うちは、細い路地を入ったところにあるので
大きい通りまで、ゴミを捨てに行かなきゃいけない。
何十メートルか、歩く。


隣のアパートの入り口のところに、男の人が立っていた。
電話をしているみたいだった。
わたしは、邪魔にならないよう、隣をすっと通り抜ける。
夜中に、外で電話したい気持ちとか、しなきゃいけない状況とか、
ちょっと、わかる気がした。

「だいじょうぶだよ」

声が聞こえてきた。

「おれは、だいじょうぶだから」

重ねるように、声は言った。
明るい、声だった。

本当に大丈夫なのかもしれないし、
電話相手を心配させまいと見栄を張る、とびきりの嘘にも聞こえた。
本当に大丈夫だと思わせたい、という、やさしい声だった。
力強かった。

ゴミを捨てて戻ったときには、その人はいなくなっていた。


「ねえ、だいじょうぶ?」

カレーの鍋を見つめる同居人に、わたしは声をかけた。
わたしのリクエストで、カレーを煮込んでくれている。

「なにが?」

同居人は、決して嘘を吐かなかった。
そういうところに憧れたと思うし、
一緒にいるようになってからは、その誠実さに苦しむこともあった。

わたしはすぐ、嘘を吐く。

それは、魔法のような、呪いのような
「だいじょうぶにしたい」という願いだったり、
「だいじょうぶにする」という、覚悟のようなものだった。

なにが、と問い掛けられるのは想定範囲内だった。
でも、うまい言葉が見つからなくて、3秒ほど迷ってから
「人生が」と答えた。
「ああ、それは大丈夫だよ」と答えが返ってきた。

「わたしは?」
「うん。大丈夫だと思うよ」

やっぱり、誠実すぎる、と思う。
同居人の日本語は、いつも正しい。
自分のことは「大丈夫」だし、
わたしのことは確信を持てないし、わたしの自身問題なので「大丈夫だと思うよ」という返事になる。

それでも、「だいじょうぶ」と言われたことに満足して、「そうか」と答えた。


煙草を吸い終わったあと、
「だいじょうぶだって、言って欲しかったの」と伝えてみた。
「そうか」と答えがあったあと、「だいじょうぶだよ」と言ってくれた。

これは、わたしの要望に誠実に答えただけで、答えそのものに意味はない。
そんなことは、わかっている。

「そうか。ありがとう」

それでも、わたしは満足した。

「大丈夫という言葉ほど曖昧なものはないけど、信じないことほど残酷なものはない」という小説のセリフは、もう20年近くわたしの信条になっている。

大丈夫。
わたしは、その言葉を信じることにした。
わたしはこの夜、そう決めたんだ。


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