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おやゆび

ずきり、と鈍く響くのは、いつも親指だった。
右手の、古傷。

古傷が生まれる前、のことを、わたしはもう上手に思い出せない。
あの瞬間、わたしの記憶は分断された。それにしたってもう昔の出来事だった。

いまは、痛みだけが残っている。

なにかしらの不調や、季節の変わり目や寒暖差、
原因はよくわからないけれど、右手の親指の付け根が響くように痛みだして、右肩までじんわりと抜けてゆく。
これを、繰り返している。

単なる、ウィークポイントの話だ。
風邪をひくと、いつも声をガラガラにしていたお姉さんのことを思い出す。
歌とおしゃべりを生業にしていたひとなのに、いつも喉からで気の毒だった。

わたしの場合は、口周り。口内炎とヘルペス
あと、右の親指。 それだけのこと。

久し振りにずいぶんと重たく響いた気がして、眉をひそめる。
立ち止まらなくては、と思う。
物理的にも、そうじゃない部分でも、
「守らなくては」と思う。

親指に死なれては困る。
もう、あんなふうにピアノが弾けなくなるのは御免だ。

ピアノがわたしにとって、一体何だったと言うんだろう。

それでも望んでいないのに弾けなくなって、あのときわたしは居場所と、生きる意味を失ったように思えた。
楽器を弾けるすべてのひとを憎んだ。
わたしは、死んだのだ。

死んだ、と同時に問い返した。

何を以て、わたしは死ぬのだろう。

わたしの魂は、どこにあるのだろう。
ピアノにあるのだろうか。
それでは、何を以て音は、わたしになるのだろうか。
わたしが弾いていればそうなる?
じゃあ、他の人と何が違うの?
どうして、わたしの音だと言い切れるの?

小指、にあるような気がした。
土台となりすべてを支配する低音、左手の小指。
そして、最後に放たれるいちばん高い音、右手の小指。

右手の小指を支えるのに、
どうしても、右手の親指は必要だと思った。

身勝手なわたしのピアノ。
「ドラマーがいないところでさ、好き勝手弾いてるのがいちばん良いんだよね」なんて、バンドメンバーに言わせてしまった、わたしのピアノ。
すこやかなる身体から湧き出す鼓動。

最後に、音だけは残りますように。

音が残れば、何度でも蘇る。
息を吹き返して、また惑って、それでも

わたしが、死んでも。

いつも、わたしを苦しめるのも守るのも音だとしても。
わたしの音が、生まれ続ける世界に在る限り
わたしの魂は、死なないのだと思う。





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