小さな旅人
今日は、ここまででいい。
そう思っていたのに、「もう少し行ってみようかな」と蹴り出してしまう。
「もう少し」、わたしの人生はそんなふうにできている気がしている。
*
最近、帰宅時の散歩コースを開拓している。
いままでは、手前の駅で降りて歩いて帰る、というのが定番だったのだけれど、「こんなに迂回せずに、最寄り駅で降りてから散歩する方法はないか」と考えた。
思いついた、というほうが正しい。
そうだ、最寄り駅! この手もあったんだ!
わたしは浮かれながらGoogleマップを開き、コースを見定める。
Googleマップは最短距離を案内してくるけれど、駅から家までのそれじゃあ意味がない。
地図を見つめて、歩いて30〜40分くらいになるような道を探してゆく。
それは、家の近所だというのに、ほとんど歩いたことのない道だった。
はじめて、と言っても過言ではない。
実際に、はじめての道も通った。
家を通り過ぎた先っていうのは、案外知らなかったりする。
いつもの道を通り抜けて、
不安な気持ちを掻き消すように、Googleマップを見つめて
小さな声で歌って、わたしは歩き続けた。
住宅街に入ると、道がまっすぐじゃなくてちょっと難しい。
適当に歩いても、大通りに戻ってこられないような気がしてしまう。
いつもよりわたしは、少しだけ慎重だった。
大通りに出て、辺りを見て、いつもの看板を見たときの安心感を、わたしは忘れない。
*
今日は、3度目の挑戦だった。
2度目はまた違うルートをそわそわと歩いたのだけれど、住宅街を長めに歩いてけっこう楽しかった。
知らない道で、不安もあったけれど。
「ひとつずつの家の明かりが違っていて、たのしい」
「わたしは、どんな家に住みたいかな」
「わたしが家だったら、どんなふうに見えるのかな」
なんて、考える余裕が生まれた。
この道は、まっすぐ歩けばいいのがよかった。
3度目は、適当に歩くことにした。
あんまり遠くならないところまで進んで、気が向いたら折り返すために曲がろう、と思っていた。
いや、そもそもいちばん手前で曲がるはずだったのに、「もうちょっと行ってみよ」なんて思ってしまった。
その感情にはいつも理由がないけれど、悪くない気がしている。
Googleマップは開かなかった。
なんとなく位置関係がわかったし、大丈夫でしょう。
なんと勇敢なんだろう。
ひとはそれを、まぬけと言うのかもしれないけれど。
これは1度目と同じルートをたどっている気がする、と途中で気づいた。
「このあいだ歩いたことのある風景な気がする」と感じたときには、「いや待てよ」と思いとどまった。
わたしはすぐそう思ってしまう。もはや癖かもしれない。
ぜんぜん知らない場所でも、「ここを知っている気がする」と勝手に思ってしまう。
だから、用心深く進んでゆく。
この家を見た気がする。
この角を曲がれば、コンビニがあった気がする。そして大通りがあるはずだ。
と思ったときには、大通りを走る車の音が聞こえて、コンビニの明かりが見えて、「やっぱりね」と安堵した。
*
たった3度の出来事だった。
たった3度なのに、わたしはもう、地図を見ないで勇敢に歩いている。
不安を紛らわすためのうたじゃなくて、陽気な鼻歌なんか歌ってしまう。
こんな小さなことで、小さな勇気で、ささやかすぎる行動で
わたしの毎日は変わってゆく。
それこそ、ほんとうにささやかな変化だけれど
その変化をわたしは、「愉快過ぎる」と思ってしまう。
まだこんな小さなことで笑って、うたって、勇敢な旅人の気分になれてしまうまぬけなわたしの生き方を
明日も明後日も、きっと嫌いになれない。
そしてこの道にすっかり慣れた頃、
きっと別の散歩コースを探してしまうのだろう。
わたしはこれからもずっと、
勇敢で飽きっぽい、小さな旅人として生きてゆくのだ。
※そうして、最後は「知っている道」に帰ってくる。
【photo】 amano yasuhiro
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