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満たされていること

満たされていることに、安堵する。
適切であることのような気がして、安堵する。

友達の部屋にいるときに、「今日は仕事関係の来客がちょっとあるんだよね」と言われた。
来る相手は、わたしも知っている人で、別に席を外す必要はないと言われた。
「お客様が来るなら」と、わたしはいつもなら最後にしている床掃除を先にすませるべく、順序立てて家事を進めていった。
友達の部屋の、わたしは家政婦だ。

時間までに、自分で決めた作業内容を終わらせて、ついにお客様がやってきた。
わたしは簡単に挨拶をしてから、お茶を出した。
冷蔵庫に残っているのは麦茶だけだったので、何も聞かず、ふたつ麦茶を置いた。

お客様に、お茶を出すのが好きだ。
自分の家と、勝手知ったるこの部屋にいるときは、必ずそうしている。
友達である場合は、「何か飲む?」と尋ねる。
べつに、美味しいお茶を淹れたいとか、真心を込めて、とか、そういうのじゃない。
ビールが飲みたいと言われれば、缶ビールだっていい。
ただ、なにか飲み物を出すと、安心する。

それは、圧倒的に「正しい行動」のような気がするし、
たぶんわたしが、飲み物を片手に置かないと、椅子に座っていられないからだと思う。
わたしは部屋にいるとき、ずっとコップを持ち歩いている。

麦茶がなくなってしまったので、ボトルを洗う。
ふだん、アイスティーを淹れているボトルも空になっていたので、洗ってしまう。

それぞれのボトルに、それぞれのティーバッグを入れる。
すべてのボトルを、冷蔵庫の定位置に入れて、わたしは安堵する。

もちろん、淹れたばかりの水出しアイスティーを、わたしが自分で飲むことはない。
それでも、きちんと満たされていることに、安堵する。
まるで、自分のコップのお茶が、満たされているかのような、そういう安心感だと気づいた。

ひとつずつ、またはひとつが満たされていること、適切であることに、安心する。

完璧じゃなくてもいい、さっきよりきれいになった床とか、
洗い物をぜんぶ洗ってしまって、激落ちで磨いたあとのシンクとか(わたしは、激落ちくんを信じている)

おとなになってから、「どうせまた汚れる」とか、「洗い損ねがあった」とか
そういうことに、いちいち悲しんだり、絶望しなくなったのもよいことだと思っている。
いま、少しだけきれいになって、次に少しだけラクができるように。
わたしは、毎日をほんの少しだけ、整えながら生きてゆく。
お茶だって、どうせすぐなくなることはわかっている。
でもいま、満たされている。

正しい行いをした、という免罪符に安堵する。
これでもう大丈夫だ、と思える。

次に来たとき、お茶のボトルは、また空になっているだろう。
わたしはまた、適切な、安全地帯のような場所を求めて、お茶を淹れる。

そうして満たされることを、繰り返しながら、
わたしの魂は、今日もすこやかだな、と思う。


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