見出し画像

学級の「多様性」からはみ出しがちな人物とは。

相変わらず子どもに授業をのっとられているJUNです。

いやいや、のっとられているというのは失礼ですね。「授業をしてもらっている。」という方が正しいでしょうか。以前、社会科の授業をしてくださる素晴らしい先生が現れたという話題を書きましたが、ついに体育科でも現れました。

うちの体育係は、天下一品です。体育科という教科に対する熱い思いは、日本一、いや、世界一なのではないかというくらい意識が高いです。

「先生! 今日の体育は、こんな流れていきたのですがどうでしょう?」「跳び箱の配置を考えてみたのですが、これで大丈夫ですか?」

なんて提案されちゃったりなんかして。

もちろん、安全面の配慮や授業のねらいもありますので、「はい、OKです!」とはいきませんが、

「いや~今回の跳び箱はさ、〇〇なところにこだわって練習したい訳。そこんところ考えてくれる?」

とか言いながら、授業のねらいについて子どもたちと話し合うというちょっとおもしろい会合が繰り広げられています。

本日はそんな話。

もちろん、このような「子ども先生」には賛否あるでしょう。しかし、僕の考えは「子ども先生」で、ある程度ねらいに迫ることができるのであれば、それは「多様性を受け入れることができる素晴らしい子どもたちが育っている。」と考えています。もちろん、授業として回りくどくなっている部分も確かにあります。いつも通り教師が前に立って、ビシッ!バシッ!っとやれば一瞬でかたがつくような場面もあるでしょう。しかし、その「回りくどさ」こそ大切なのではないかと思うのです。

また話が反れてしまいましたが、本日は「多様性」の話でした。僕の学級の核としては、「自分を信じること。」そして、「他者を受け入れること。」という「多様性」が大きなキーワードです。多様な子どもたちが多様な価値観を受け入れてこそ成長できると信じているのですが、その「多様性」の中で意外と仲間外れになってしまう人物がいるのです。その可哀そうな人物についてまずは書いていきますね。

▶教室の「多様性」からはみ出しがちな人物とは。

さて、その切ない人物はだれなのか察することができたでしょうか。学級の中でかなり特殊な立ち位置にいるその方。何となく想像つきますか? では答え合わせです。その人物とは、


「教師!!」

なのです。文字間隔の関係で、大分前から見えていたかもしれませんが、考えていただいたでしょうか。

「教師もカウントするのかよ!」と思った人。入れてあげてくださいよ、学級の仲間に。こんなに頑張っているのですから。

どういうことか説明していきますね。

過去に、「教師が心を病む原因」について書きました。実は、この多様性からはみ出した状態も、教師の心の病の要因になり得るのです。

考えてみてください。「自分の考えを受け入れてくれない集団。」にそれなりの期間所属するのは耐えられますか? よっぽど自分がやりたいことを自分のペースで取り組めるような好条件でないと続かないでしょう。何て言ったって、仕事の満足感は、職種でもなくお金でもない。「職場の人間関係」に左右されるのですから。ざっくり言うと、「職場に心を許せる仲間がいるかいないかで、仕事の満足感が大きく変わってくる。」ということが知られていますよね。だからこそ、「自分が受け入れられていない。」という感覚は、心に大いなるダメージとなるのです。

▶なぜ、「多様性」の仲間に入れてもらえないのか。

これは、決して教師がいじめられているという訳ではありません。

むしろ、どちらかと言えば、

「教師の心の立ち位置にあります。」

現在、教師が退職しやすいのは、教師になり立ての若者層と言われています。その原因ともなっているのではと思っているのですが、

「教師は、教師でなければならない。」

という、強めのプロ意識が若手教師の心を切り刻んでいるのではないかと思うのです。もっと言うと、

「教師は、何もかも知っていないといけない。」
「教師は、間違えてはいけない。」
「教師は、常に正しい判断をしなければならない。」

というような、「自分勝手な教師像」に囚われているうちは、心を消耗し続ける可能性があります。

数週間前まで大学生だった若者が、4月から急に「先生!」と言われるのです。敢えて教師を志望する若者ですから、「ちゃんと教師をやりたい!」と思っていることでしょう。「僕は、こんな学級をつくりあげるんだ!」という理想も高いでしょう。「僕は、教師として子どもたちのお手本となるんだ!」という理念もしっかりとしているでしょう。

実は、ここに理想と現実のギャップが生まれたときが、危険度MAXなのです。よく言われている「疲れる原因」ってご存じですか? もちろん、1日働いた肉体的疲労もありますよ。しかし、同じくらい気にかけてあげないといけないのは、精神的疲労ですよね。その疲労の原因は、

「本当の自分を出せていない状態。」

もっと簡単に言えば、

「背伸びして、装っている状態。」

が、一番精神疲労がたまるのです。

先に述べた「理想の教師像」を明確にもてばもつほど、現実とのギャップに苛まれ、普段とは違ったキャラを演じることにも疲れ果てたあげく、心身共に疲れ切ってしまうのです。

そして、この状態が、

「学級の『多様性』から自らはみ出した状態。」

なのです。「理想の教師像」が、

「何もかも知っていて決して間違えない頼りになる完璧人間。」

であるとしたら、間違えることが許されない状態を自分に課していることになります。

しかし、多くの人はこの全知全能の神を装うことができません。それを知っていながらも「神」を演じようとするから、この多様性の中に入ることができず、自分を苦しめることになるのです。

▶本当の「自分」を認め、「多様性」の一部となる。

さて、教師を飛び越え「神」となろうとしてはいなかったでしょうか。

僕の趣味は、教室めぐりなので、多くの先生の教室を回らされていただくと、よく掲示されている本は「教室はまちがうところだ」という本です。きっと、学級経営の核として据えているのでしょう。

では、「間違えてもいい!」と教えている教師は、「教師も間違えていいのだ。」と思えているでしょうか。子どもたちの前で間違えることはできるでしょうか。むしろ、間違えたときこそチャンスで、子どもたちにどのような反応を求めますか。きっとこの反応が温かいものであれば、その学級は「多様性」が充満しており、教師自身も「多様性」の一部として認識されているでしょう。

「教師なのに。」

とかいう反応が出てきたら、もしかすると「教師=全知全能感」を醸し出してしまっているのかもしれません。このような反応をする子どもたちがいる場合、子ども同士の「多様性」も見直してみる必要があるかもしれません。

最後に余談ですが、「『無敵』のマインドセット」には、

「教師が、全ての答えを知った状態で授業に臨む必要はない。」

という趣旨の内容が書かれており、「うんうん。」と思わず納得しました。僕が好きだった先生も、

「子どもと共につくりあげていく授業。」

を押していました。もちろん教材研究は必要不可欠なので、スタート地点は教師の方が子どもたちよりも知識量で言えば多いでしょう。しかし、全ての疑問の答えを教師がもっていなくても良いのです。子どもたちは、自分の力で学んでいくのであり、教師から全てを教えてもらうのではないのですから。

▶まとめ。

本記事では、「教師も仲間に入れてあげよう。」という切実な内容をまとめました。「教師」という職業は、子どもたちにとってみれば、多少の権威性をもちます。子どもたちからすると、

「先生は何でも知っている!」

と思われてしまうのも仕方ないでしょう。しかし、そのイメージをずっと守り続けるのはなかなか辛いものです。早々と、「教師もみんなと同じ人間なんだ。」と理解してもらった方が楽しいではないですか!

「先生と共に勉強していこう!」と、先生も学んでいる姿勢を率先して示すことで、子どもにとってもお手本となれるはずです。

神格化するより、庶民派でいくことをおすすめします!!


学習も多様なインプットが大事です。


いただいたサポートは、地域の「居場所」へ寄付させていただきます!