スープは微笑むように煮る(第四話)心理カウンセラー探偵 横川正太郎の事件簿
翌日、三人の話を聴いた。躁病の女、気分障害の高校生、鬱気味の税理士だった。
横川は学校から戻った修と犬の散歩に出た。たっぷり街を歩いた後で、修を先に帰して自分はスーパーマーケットに寄ることにした。残念ながら日本ではスーパーに犬は入れない。
夕飯の食材を買い、事務所に戻った。事務所のソファに見慣れない男が二人いた。
「予約は入っていないはずだが」
横川は静かに言った。
一人の男はサイズの合っていないダブルのスーツを着ていた。身長に対して太りすぎていると横川は思った。もう一人は光物のスーツを着ていた。格好が二人ともわかりやす過ぎる。
「よお、おかえり」と、光物の男が言った。「今年の冬は寒いな」
「そうだな」
横川は食材の入ったエコバッグをキッチンに置いて、二人組に向き直った。
「なんか用か?」
「鮎沢静江」と、ダブルの男が言った。
以前、横川が静江の店(バー)から追い払った男だったことを思い出した。かなり体重が増えたようだ。
「金を貸しているんだ」
「そうか」
「返してもらえなくて困っているんだよ」
「そうか」
「あんたからも言ってくれないかな」
「そんな義理はないはずだが」
「そうかな」
「ああ」
修がバーディを抱えて怯えているのが目に入った。バーディが小さく唸り声をあげている。
「噛まないよな。その犬」
光物の男がバーディの方を見て言った。
「噛まないな。あんたが何もしなければ」
「子供の頃、輩犬に噛まれたことがあってな。トラウマなんだ。そういうのトラウマっていうんだろ」
「かもしれない」
ダブルの男が、煙草を咥えた。
「悪いな、禁煙なんだ」と、横川は言った。
ダブルの男が無視して煙草に火をつけた。
「どこもかしこも禁煙だな。時勢かね。灰皿なら自前のがあるからいいだろ?」
横川は仕方なく灰皿を出した。
「何だ、あるんじゃねえか。差別はよせよ。俺たちだっていつあんたの客になるかわからねえんだ。悩みは深いんだぜ、これでも」
「そうだろうな。でも予約してくれ。できればサイトのフォームから」
「めんどくせえな」
ダブルの男はゆったりと煙草を吸い込み、深く煙を吐き出した。
「まあとにかく、鮎沢静江は俺たちから借金していて、支払い期限はとうに過ぎているんだ。何とかしないとあんまり面白くないことになる。覚えといてくれよ」
「わかった」
「それだけさ、探偵さん」
「悪いが、探偵はもうやめたんだ」
「そう」と、ダブルの男が薄く笑った。「うまくやめられるといいな」
やがて二人組が出て行った。
修がバーディを抱えたまま側に来た。
「怖かったか?」
「少し怖かった」
「悪いことしたな」
「大丈夫だよ。ちょっとドキドキした。あの人たち悪い人?」
「どうかな。必要悪かもしれないしな」
修が首を傾げた。
「世の中、白と黒しかないわけじゃない。そういうことさ」
修が頷いた。
「それはわかっておけ。学校じゃそうは言わないだろうけどな」
横川は、出してやった灰皿を片付けるついでに窓を開けた。冷たい風が入ってきて煙草の煙を流した。
日が暮れると気温はさらに下がった。毎年、冬が寒くなるような気がするのは歳のせいだろうか、そんなことを横川は考えた。しかし、冬は嫌いではなかった。様々な野菜が甘くなる。
その晩、修が料理を習いたいと言ってきた。
「何を作ってみたい?」
「わからない」
「そうか」
横川は冷蔵庫の中身をチェックした。そして、人参と玉葱とキャベツとじゃがいもを出した。ソーセージも出した。
「スープを作ろう」
「うん」
修が頷いた。
「お前は忙しくない。時間だけはたっぷりある。だからこれにしようと思う」
「わかった」
「大体でいいから同じ大きさに切るんだ。皮はピーラーで剥けば簡単だ」
横川はまな板の上にピーラーと包丁を並べた。そして見本を見せた。
「こんな風に。適当に作るのがいいんだよ、こういう料理はな」
「うん」
それから修がそれぞれの野菜の皮を剥き、大雑把に切った。
横川は鍋を出した。
「それをこの鍋に全部入れるんだ。あとはこれを注ぐ」
横川が冷蔵庫からトマトジュースのペットボトルを出した。
「トマトジュース?」
修が顔を顰めた。
「まあ、子供はそうだな。俺もそうだった。でも料理に使うと違うもんだよ」
横川に渡されたトマトジュースを修は取った。
「どれくらい入れるの?」
「ひたひた。ひたひたとは、具材がかぶるくらいのことだ。大抵の煮物はそうすれば問題はない。今回はスープだから少し多めにしようか」
「わかった」
「あとは煮たったら弱火にして二、三十分蓋をして待つだけだ」
横川はガスの火の強火、弱火、中火の差を教えた。
「これだけ?」
「ああ。スープは微笑むように煮るんだ。コツはそれだけだ」
「どういうこと?」
「表面が少しだけぽこぽこいうくらいかな。焦らずじっくりってことさ。途中でマカロニも入れてみよう」
三十分後、スープはでき上がった。それを深皿に入れて二人で飲んだ。
「おいしい」と、修が言った。
「お前が作ったんだ」
「うん」
「これからなんだって作れるようになる」
「うん」
「あの包丁はお前にやるよ」と、横川は言った。その包丁はいつか娘にやろうと思っていたものだったが、当面渡す機会はなかった。
「食べることは生きることだ。ちゃんとしたものを作って食べていれば、それで十分だ。自分で自分の食べる料理(メシ)を作るんだ」
「わかった」
修がミネストローネもどきを頬張りながら頷いた。
「いくつかレシピを教えてやるよ。最初から難しいものなんて作れなくていい。なんせ毎日のことだからな。一年も経てば立派なシェフになるよ」
「ほんと?」
「ああ。うまくできたときは、俺にも食わせてくれ」
修がにっこりと頷いた。
横川は、修の子供らしい笑顔を初めて見た気がした。
夜の底になると、時計の音しかしなくなった。バーディはクレートで静かに寝ていた。たっぷりとランニングしたから今日も満足している。エアコンで部屋の中は暖かかったが、時折、真冬の風が窓を鳴らした。窓のサッシは旧式で結露している。結露した窓は横川に過去を思い出させる。なぜだろう。窓に疲れた男の顔が映っている。生産性のない《横川正太郎》の姿を映し出している。煙草を吸いたくなったが、手持ちはないし買いに行くのも面倒だった。それに、せっかく半年以上禁煙しているのだ。
横川はこの時間帯になると、孤独に耐えきれなくなることがあった。そんな夜は、その気持ちと向き合うようにしていた。考えないようにしたところで、その孤独がどこかに行くわけではない。
以前は酒を飲んだ。今は飲まない。酒は料理に使うだけだ。孤独は横川の料理の調味料だ。甘くもあり苦くもあり、複雑な味がする。
なぜ、自分はこんな仕事をしているのだろうと何度も問いかける。人々の行き場所をなくした感情が吐き出される公衆トイレのような仕事だ。妻だった女の気持ちをしっかり聴くことはなかった。娘と話すこともなかった。そのことが後悔として残っている。罪滅ぼしだろうか。それも何度となく自らに問いかけたことだ。答えがあるわけでもない。コーヒーを淹れようかとふと頭に浮かんだが、眠れなくなるだけなので白湯に蜂蜜と生姜を入れてゆっくりと飲んだ。奥の部屋では修がぐっすり寝ていた。リビングの端ではバーディが寝息を立てている。それで十分だと、横川は思った。それに、人が文化的な生活を送るには、どこかにトイレが必要なのだ。
横川は修に渡してやるレシピをいくつか考え、メモを作った。少し気持ちが晴れた。
修を預かってから五日目の夜遅く、事務所のドアが小さくノックされた。来訪者はチャイムを鳴らさないデリカシーは持ち合わせているようだった。ドアを開けると由梨子が立っていた。
「よう」と、横川は声をかけたが、由梨子は俯いたまま、何も言わなかった。
数日の間に少し痩せたように見えた。
「修はもう寝たよ」
由梨子が視線を下げたまま、小さくため息をついた。
「そう……あのね」
由梨子が何か言いさしたのを横川はふと遮った。
「夜食食うか?」
ほんの少しの沈黙の後で、由梨子がかすれたような声で言った。
「なに?」
「ほうとうでも作ろうかな。この前来た相談者(クライエント)が立派な南瓜を置いていってくれたんだ。野菜なら買い置きもあるし」
「食べる」
「そうか。少し待っていろ」
由梨子が乳白色のスーツケースをドアの側に立てかけて、ソファに座った。コートを脱がないところを見ると、余程身体が冷えているのだろう。
横川はショットグラスに少しだけウイスキーを注ぎ、由梨子に出した。由梨子はグラスを一気に飲み干すと大きく息を吐いた。
「それで少しは血が巡るだろう」と、横川は静かに言った。
横川は南瓜を早く煮込めるように薄く切り、他の野菜類と一緒にだし汁に入れた。やがて、いい香りが事務所に漂った。冬の食卓の匂いだった。横川は冷凍の讃岐うどんを二つ出すと、熱く滾っただし汁の中でしばらく煮込んだ。
「そろそろいいかな」
横川は汁の中に味噌を溶き入れると、ゆっくりかき混ぜた。やわらくなって溶け出した南瓜で、汁が少し緑がかった茶色になった。そこに冷蔵庫から出しておいた卵を二つ割り入れた。蓋をしてから土鍋ごとテーブルに運んだ。横川は二人分の器と箸を置いた。
「いい匂い」
由梨子がぼんやりと煙草を咥えていた。横川は灰皿を出してやった。
「もう少し蒸らす」
横川は由梨子に言った。
「うん」
由梨子が素直に頷いた。土鍋の蓋にある穴から湯気が出ていた。二人は、その湯気をしばらく見ていた。
「向こうは、寒かったか?」
「うん。東京とは比べものにならないね」
「そうか……。お前、半熟が好きだったよな」
「よくそんなこと覚えてるね」
「まあな。そういうことはなぜか覚えているものさ」
横川は土鍋の蓋を取り、ほうとうを取り分けた。湯気が盛大にあがった。
「食えよ。多分、うまいから」
「ありがと」
由梨子が器を手に取り、熱い汁に息を吹きかけながら啜った。そして、うどんを少しずつ口に運んだ。やがて、由梨子は静かに泣き始めた。しかし、食べるのはやめなかった。
「ごめん……ね」
由梨子が声を絞り出すように、それだけ言った。
どこに行っていたのか、何があったのか、いつか話す気になる日が来るかもしれない。横川は、いつものようにそれを待つだけだと思った。
「あそこにある小さな棚な、修が作った」
「え?」
横川のデスクの上に、白い棚が置いてあった。
「お前のごちゃごちゃした化粧品を並べるための棚だそうだ。持って帰れよ」
由梨子は箸を止め、棚を眺めた。デスクトップのライトがそこだけ照らしていた。遠目には売り物に見えなくもない。
「ミネストローネも作れるようになったぞ」
「え?」
「男子、三日会わざれば刮目して見よ。誰の言葉だったっけ?」
「知らないよ、そんなの……」
由梨子が棚をじっと見つめたまま小さく言った。
「調べておくよ」
由梨子が再び泣き始めた。涙の種類は変わったかもしれない。
横川は箸を持っていた手を軽く握ると、ティッシュの箱を由梨子の方へ押しやった。
その夜、東京に二度目の雪が降った。
終わり
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