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#3 僕のおしん時代、からだで覚えた商い|東京繁田園物語デジタルアーカイブ

本記事は、東京繁田園茶舗の創業者・繁田弘蔵が執筆した『東京繁田園物語』(1995年)の内容を再編集したものです。

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茶業を生涯の仕事に

父の仕事がうまくいかなくなり出した頃私は小学校の最終学年を迎えたのですが、この頃になると茶摘みだけでなくお茶づくりも手伝わされるようになりました。つまり、摘んできた葉を機械のところに持っていき、大人たちの作業の手伝いをするのです。昭和10年頃のことで、この頃はすでに製茶の機械化が進んでいました。ちなみに埼玉県では大正末期から機械製茶工場が急増し、昭和20年、つまり終戦を境にいっそう増え、その数は300工場以上にも達しました。 

繁田園製茶場の一部

小学校を卒業した私は地元ではなく、東京の商業学校に通うことになりました。というのは、東京には繁田園の製茶工場があったからです。場所は今の練馬区石神井です。なぜ入間ではなく遠く離れた石神井にわざわざ工場を建てたのかといえば、それは入間では競争が激しかったからです。入間は狭山茶の茶どころです。製茶工場がたくさんあります。どの工場も葉を必要とします。そのため近隣の葉を奪い合うこととなり、思うように葉が集まらない時は地方から買い集めなくてはならなかったのです。そういう環境であったために、大きい工場を建ててもそれに見合うだけの量の葉は集まらないと判断し、それならばと東京に工場をつくったというわけです。 

石神井の場合近くには同業の工場がありません。そのため近隣の家から容易に葉を集めることができました。このあたりは入間のような大規模な茶園はない代わり、生け垣や垣根がわりにお茶の木を植えている家がけっこうあったのです。たとえば隣と自分の地所の境に植えていたり、畑のまわりもお茶の木で囲っていたりします。他の植木でそうするよりはお茶の木のほうがまだ役に立つという考えからでした。葉を摘めば自分の家で飲むくらいの量なら十分つくれます。そのために多くの家で垣根がわりにお茶の木を植えていたのです。その葉を、買い子といって専門の仲買人が買い集めてきます。これだけでもまとまるとかなりの量になったのです。 

製造方法を取得、商売のイロハを覚える 

お茶づくりの時期ともなると、石神井の工場の倉庫はお茶の葉でいっぱいになり、その匂いでむせかえるほどでした。しかし、お茶づくりはほんのわずかな間です。製造に回されたら、あれほど葉でいっぱいだった倉庫もがら空きになります。そこで私の一世代前までは、その倉庫を利用して地方回りの旅役者をよび、木戸銭をとって近所の人たちに芝居を見せていたようです。

石神井では私は夜学の商業学校に通いながら、お茶づくりや商いに精を出しました。夜学を選んだのは経済的なことからではありません。昼間はお茶づくりと商いに忙しく、夜しか勉学の時間がとれなかったからです。 

いずれにしてもまだ10代の始めでしたが、ここでの経験が私のその後の茶業人生の礎に なっています。ここでお茶の製造方法も覚えれば、商売のイロハも身につけたのです。 

当時、私はまだ子供といってもいい年齢です。しかし、お茶づくりにかけては人に教えるほどにまでなっていました。新しく入ってきた職工さんに、年老いた番頭に代わって私が教えるのです。薪の炊き方、石炭の燃し方、匂いのかぎわけ方、火加減など、いろいろと教えました。そういう人に教える面白さ、楽しさには格別のものがありました。

一方商いをする中で、「あんたの持ってきたお茶はよかったよ」などと言って喜んでもらえることも楽しく、私は茶業にますますのめりこんでいきました。そして何より私をこの仕事に引きつけたのは、お茶の仕事にたずさわるからこそ宮内省などにも出入りでき、皇族をはじめとする偉い人ともつきあえる。普通の人より一歩も二歩も先に行ける。他のことでは人に及ばないかもしれないけれど、お茶だったら私は誰にも負けない。私はこの仕事に進もう、もし日本でできなければ外国に行ってでもやろう、この頃私はそう決意したのです。 

僕のおしん時代 

商業学校を卒業すると、私はすぐ上の兄、繁田秀次に呼ばれて盛岡に行くことになりました。 「学校を卒業したら盛岡に来い」と前々から言われていたのです。秀次はこの地で新たに繁田園を興していました。ちなみに繁田組茶業部が山形、秋田、仙台にそれぞれ「繁田園」の支店を出した頃は、息子たちがまだ幼かったために、商いはみな番頭が任されてやっていました。この三つの繁田園の中でもっとも隆盛を誇ったのは仙台の繁田園です。番頭だけで二十人以上もいました。兄・秀次もここに見習いに行き、商いを覚えました。なお仙台の繁田園は現在「井ヶ田園」に変わっています。

 盛岡の兄の店に商業学校を卒業したばかりの私が呼ばれたわけは、大東亜戦争が始まった頃で、店員が一人また一人と兵隊にとられ、人手が足りなくなったためです。 
ここでは仕事に追われる毎日でした。昼間は店番や配達に忙しく、大量の注文は夜、店を閉めてからこなさなければなりません。九百本もの注文がきた時は、何日も夜なべをして袋詰めの作業をしたものです。 

厳しいノルマ

また、兵隊に行った店員の代わりに私は行商もやらされました。というのも盛岡と仙台の繁田園とは商圏が重なるため、兄・秀次は盛岡より北の地域、つまり青森や北海道に進出して商圏の拡大を図ろうとしたのです。 
兄は自分の実弟だからといって私を甘やかすことはありませんでした。自分の店の店員が一回の行商に十日かかれば、おまえは弟なのだからそれを三日つめて一週間であげろと言うのです。しかも売上は落とすなときつく申し渡されました。

戦前の行商については、今の人では恐らく想像もつかないでしょう。一言で言えば昔の富山の薬売りと同じです。一軒一軒得意先を歩いて訪ねて回り、注文をとります。そしてお茶を置いていきます。盛岡を夜中の二時頃の夜行で発つと、青森に着くのが早朝の七時頃です。休む間もなくそのまま市中に入るか、あるいはさらにローカル線に乗って地方に向かうかのどちらかです。

最初の頃は先輩の番頭といっしょに回ります。 ある程度の得意先はすでに兄や番頭がつくっていてくれました。私は革の鞄にお茶をいっぱいに詰め、それ以外の分は先に旅館に送っておきます。鞄はずっしり重く、それを両手に下げ、全部売れるまで日がな一日歩き回りました。朝の八時頃に仕事にとりかかると、夕飯の時刻までずっと歩き放しです。どこの町でも駅から町中まで最低5、6キロはあります。長いところで8キロ。時間にして1時間はゆうにかかります。それを重い鞄を持っててくてくと歩き、そうして初めてお得意さんの家のある町中にたどり着くのです。しかし、それはその日の商売のスタートでしかありません。一軒が片付くと次のお得意さんの家を目指して歩き、また歩く。くる日もくる日もそれの繰り返しです。 

雑用を引き受け顧客づくり

兄は行商の日数を短縮し、それでいて売上は落とすなと私に言いました。そのためにはどうすればいいか、私は考えなければなりませんでした。 そこで達した結論がお得意さんにうまくとりいることでした。そうすることによって拠点をつくり、そこを足がかりにしてコネクションを広げていこうとしたのです。 

実際に私がどうしたかというと、人手の足りないお得意さんがいれば、私が代わって用足しをしたり薪割りをしたりと、進んでその家の用を手伝ったのです。子供さんがいれば勉強をみてやったりもしました。それらは直接商売とは関係ありません。しかし、そうすることでまずお得意さんとの間に信頼関係を築いていったのです。自分の商売以外の時間にそれをやるのですから肉体的にも大変でしたが、それだけのことはありました。他のお客さんを紹介してもらい、得意先を増やすことができたのです。兄は売上を落とすなとい いましたが、それどころか売上を上げる結果にまでなりました。私はこれを戦争に行くまで続けました。 

からだで覚えた商い 

行商をして相手にかわいがってもらうには、相手の気持ちになることが大切です。買う人の気持ちになることです。物を買った時に、あの人に売ってもらって良かったと相手に感謝されることです。しかし同時に自分もまた儲からなければなりません。利益が少なくて自分の腹を苦しくするようでは、いくら相手に感謝されようとそれはいい商売とは言 えません。 
そこで、そうするにはどうすればいいかとなりますが、それは良質のものをしかも安く仕入れることです。これによって自分の利益を多くし、なおかつ相手にも得をさせられます。後に独り立ちした時に、私はこのことを商売の基本に据えました。 

こういう考えに至ったのも、それは盛岡時代の行商の経験がものをいっています。得意先を一軒一軒歩いて回る行商をして苦労したからこそ、どうすれば相手にかわいがってもらい、同時に利益も上げられるかわかったのです。 

しかしさらにさかのぼって考えてみれば、それより前の時代の経験がその下地をつくっているように思えてなりません。私は商業学校の夜学に通いながら、石神井の工場でお茶をつくり、それを売って商売を手伝ってきました。まだ10代の半ば頃のことです。 

当時はお茶を売るといえば、それは一種の行商です。得意先から注文をとり、配達します。その際私がやったのは注文の品をただ届けるだけではありません。あらかじめ買い物など用がないかどうかを聞いておき、あればその品とお茶をいっしょに届けるのです。石神井の工場をやっていたのは長兄の慎一郎ですが、兄は売上を上げれば二割の利益を私にやると言ってくれていました。そのこともきっと手伝ったのでしょう、私は張り切り、子供ながらにも利益をあげる方法を考えました。ただしまだ子供だったので、頼まれた物を持っていくと、先方はお駄賃としてお茶菓子をくれたりしました。いずれにしてもこの頃から、私は商売の実践方法を身につけていったのです。 

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