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#1 繁田家について|東京繁田園物語デジタルアーカイブ

本記事は、東京繁田園茶舗の創業者・繁田弘蔵が執筆した『東京繁田園物語』(1995年発行)の内容を再編集したものです。

はじめに

昭和22年、私は東京の阿佐ヶ谷の地に「東京繁田園」の第一号店をオープンしました。それからはや50年近くがたちます。この半世紀の間、店は8店舗にまで増え(2024年現在は2店舗)、3人の息子たちも成長してあとを任すまでになっています。そのような中で阿佐ヶ谷の店を新しく五階建てのビルに建て直すことになり、新たなる出発の意味から何か記念になるものをと考え、それがこの本を出版するきっかけとなりました。

本書は私の生い立ちに始まり、繁田一族のことや私が茶業に関わっていく過程、店を起こすいきさつや独自の商売のやり方、お茶にまつわる私の今の活動やこれからの茶業に対する私なりの意見や提案など、多岐に渡った内容からなっています。また、お茶のことをもっとよく知っていただくために、お茶ができるまでの話や、お茶の上手な飲み方、保存方法、マナーなどにも触れてあります。繁田弘蔵という一商人の茶業人生にとどまらず、お茶そのものの知識もより深めていただきたいという願いをこめています。

また東京繁田園だけでなく、もっと広い意味の「繁田園」の歴史を多くの方々に知っていただきたいという思いもこもっています。というのも繁田園と名のつく店は東京の私の店以外には札幌、秋田、盛岡とありますが、これらは私の実兄や従兄弟たちが経営していたものです。また姉が嫁いでおります新潟の浅川園の義兄は、白寿を迎えた今も社長として健在振りを発揮しておりますが、繁田園一世としての現役は私一人になってしまいました。かつては「繁田園会」という会まで結成し、全員で集まって活発に勉強会を開いたりもしていたのですが、それももう過去のことです。
そこで一人残った私の努めとして、祖々父の代に興し、わが国茶業界の一端を担ってきた「繁田園」の歴史を後世に伝えなければと思い、それが本書のベースになっています。

私は現在73歳。 「東京繁田園」もそろそろ私の息子たちの代に移りつつあります。3人の息子たちに茶業の未来を託し、 茶業界のさらなる発展を祈るばかりです。


平成7年11月吉日 繁田弘蔵

繁田家のルーツ

私が生まれ育ったのは埼玉県入間市で、ここは全国にその名を知られる「狭山茶」の主要な生産地です。今でこそ宅地化の波に押されて茶畑はめっきり少なくなってしまいまし たが、一昔前まではあっちにもこっちにも茶畑が広がり、また製茶工場もほうぼうに建っていました。

入間市 金子台の茶畑と富士山(入間市公式HPより引用)

私の生家も茶業を営んでいました。
繁田家の茶業の歴史は古く、製茶を始めたのは繁田家十代当主繁田武兵衛満該の時と繁田家の年譜に記されています。 満該が1815年(文化12年)に茶業を始め、それを私の祖父である十二代当主繁田満義が引き継ぎ、明治8年に「狭山製茶会社」を創立しまし た。満義は製茶事業に大変熱心でアメリカにまでお茶を輸出し、1893年には米国シカゴ博、1900年にはパリ万国博にそれぞれ出品して、大賞牌まで受けています。

狭山会社 輸出ラベル(入間市博物館HPより引用)

満義が興した「狭山製茶会社」は次に十三代当主繁田武平(号翠軒) へと受け継がれ、それを武平の実弟で私の父である繁田金六(号百鑒済)が実質的にきりもりしていました。私はそのような中で繁田一族の一人として生まれ、育ったのです。

私の祖父・繁田満義は若い頃から大変やり手だったらしく、15歳の時には名主見習いを、 17歳の時には武州挾山(現在の埼玉県入間郡)の四十八か村の総代名主になったほどの人物です。満義は茶業の他にも農園や銀行、醬油会社や保育園などを興し、養子に行った 長男と五男を除く息子たちにそれぞれの事業を引き継がせました。

繁田武平満義(入間市博物館HPより引用)

父が茶業部を実質的にきりもり

満義には全部で子供が8人いました。 長男・亀太郎は母親の実家の発智家に養子に迎えられました。ここは高麗郡笠幡村(現川越市霞ヶ関)で二十代以上も続く有力者の家柄で、 一人娘を繁田家に嫁にもらう代わりに、生まれた第一子の男児は養子として発智家に返す という約束事があったのです。亀太郎は名を発智庄平と改め、自分の屋敷内にゴルフ場をつくって、皇族や外交官専門の「霞ヶ関カンツリー倶楽部」を設立しました。明治、大正期の実業界の中心人物の一人です。

長男が養子に出たために、 繁田家を継いだのは二男の繁田武平(号翠軒)でした。17歳の若さで家督を相続した武平は「狭山製茶会社」を家計の基礎に据えながら、他にも豊岡町長を25年間務め、また黒須銀行を設立、豊岡大学を創設するなど、繁田一族のトップにあるだけでなく、実業家としても政治家としても大いに力を振るいました。

繁田組を束ねた繁田家十三代当主 繁田武平翠軒

また三男・庸三郎は繁田一族が組織する繁田組の農園部を、四男の哲四郎は醤油部 (「キッコー武醬油」)を引き継ぎました。五男・俊吾は川越の銀行家高山家に養子に行きました。

そして、六男が私の父・繁田金六です。父は繁田家の本家を出て夫婦でもって新家に養子に入りました。新家というのは武田信玄の士族を初代とした五代続く家柄で、父は六代目ということになります。父は繁田組の屋台骨である茶業部に若い頃から身を置き、事業にたずさわりました。八人兄弟の中では、繁田組を束ねる武平を除いて父一人が茶業に従事したということになります。その頃にはすでに繁田組の茶業部では山形、秋田、仙台にまで支店を出していました。また父は武平と共に赤坂離宮の中に茶園を開き、御料茶謹製の光栄に浴しています。

繁田金六(号百鑒齋)50歳の頃
赤坂御苑謹製茶「鳳苑」

父の下には妹がおり、さらに末弟の義八がいました。義八は若い頃亡くなりましたが、経営していた保育園は義八の未亡人が受け継ぎ、現在の豊岡保育園となりました。

以上が私の祖父、父、ならびにその兄弟の繁田家の概略です。
なお日本で初めてお茶をメインテーマとして、平成6年にオープンした入間市博物館には、繁田家の人々を紹介するコーナーが常設されています。

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