自分に出逢う旅
人は、自分というものを、生まれながらには知らない。生きていく過程で知ってゆく。あるいは彫刻のようにまだ見えぬその姿を感じ取り、彫り出していく。それは、様々な体験を通じて自覚する好きや嫌い、周りと関わりあう中で気づかされる得意、不得意。主体的な行動がとれるようになってくると、自分で選択をするとう機会を通じて、己の解像度が更に高まっていく。そしてやっと、今度は自分で自分を「創って」いく。うっすらと頭の中に見えたカタチを頼りにノミを手に取り彫り上げていく。それはきっと、外の世界との関わりを通じた自分に出逢う旅なのだろう。おそらく、それが、多くの人の道なのだろうと、理解する。
私の場合は、そうではなかった、という人もいるだろう。好きや嫌いという感情を持つことが許されない環境にいた私、得意をバカにされ、隠され、不得意を無理強いされて、育った私。そういう環境は、一般的な社会とはかけ離れている。外からみたら、同じ環境で、同じようにたくさんの体験をしているように見える場合もあるだろう。その実態は、見えないガラスの箱の中で、電気ショックにおびえながら、でもそれを唯一の手掛かりに、ガラス越しの外の世界を観察しながら、一定のルールを探して、もがき生きる生活だ。そんな環境では、自分を知るということができない。とっかかりも、手がかりもない。他人の物差しを参考に動かざるを得ない。他人の物差しはふわふわとしていて、矛盾が多い。言う人が変わる、言ってる人の状況が変わる、その人に利するように嘘をささやいてくる人もいるだろう。振り回されて場当たり的な対応をし、混沌に生きる。
混沌に生きて、疲れ果てたときに、「あなたの好きなことをしなさい」と言われて、戸惑う。好きなことなんて、わからないまま生きてきたのだから。その時初めて、自分は何か異質で、壊れていて、からっぽで、”みんな”から置き去りにされたと気づく。ずっと”みんな”のいう通りに、そして、”みんな”の希望をかなえようと、心を全部注いできたのに。
”普通”に育つことができた人にはわからないことだ。たとえるなら、自分だけ洋服を与えられず、暑さ寒さに耐えながら、人生とはこんなものなのか、と勘違いして生きている感覚。熱いものから逃げることを知らず、火傷を冷やしていたわることも知らず、人から背中をさすってもらって心を慰めることも知らない。毛布のずっしりとして安心する感触も、ペットのあたたかく柔らかい毛並みの気持ちよさも知ることはない。いわばそういう人生だ。
でも、そんなところからも、何周遅れでも、混沌の中から無に落とされた地点から、自分の奥の奥の奥底に、小さな、何重にも殻で覆いかぶされた、あなたが生まれてからずっと芽吹くのを待っている種がある。もがきながら、少しだけ心地よい方、少しだけ興味あるかもしれないこと、とってもくだらないと思えることでも一つ一つ拾っていく。そんなこと、どうしていいかわからない、という声が聞こえてくる。それが信じられないくらい難しいことを知っている。でも、難しくても、耳を澄ませて、心を清ませて、掴んでみる。もしかしたら自分の体が心地よくなるかもしれないことを、探して一つづつ拾っていく。心地よいの反対の、心がざわっとすること、胸がちくっとすること、背伝いに恐怖がのぼること、すごく体が重くなること、もしかしたらこんなことにも最初は気づかないかもしれない。あなたははだかの皮膚で耐えて生きてきたのだから。でもそれに気づき始めたら、気持ちよくないことを一つづつ外していく。そうして一年が経ち、二年が経ち、時に転び、時に溢れ、時に疑いながら、やっぱり拾って、捨てていく。
そうするとね、種の殻が少しづつ剥けてくる。剥けても剥けても薄皮が何枚も張り付いていて、その間に硬い殻が何層もあるけれど、薄くなるにつれ、種の存在が感じられようになる。種が見えてきたら、それが自分だ。どんな色の種だろう。私の種はこんな色なのかとわかる。それがどんなふうに育つかはわからない。どんな花を咲かせるのかも、そもそも花が咲くような種なのかもわからない。だけどそれが自分だ。育ててみよう。今度は殻が剥けることで見つけた自分の好き嫌いで、得意不得意で、好きをやって得意をやって楽しいをやって、やりたいをやる。
それが自分だけの種に必要な太陽と雨と土と風と養分と愛情になるんだろう。そんなふうにして、外の世界との全うな関わりが持てない混沌とした環境に生まれても、いつか、自分の内側を旅して自分に出逢い、そして自分を創ることができる。半分は確信して半分は希望している。