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国語の読解力問題についての誤解

国語の授業において「作者の意図を問う」読解力問題につまずいた人が、世の中にはたくさんいるらしい。「作者の気持ちなんか知らないよ」系言説の多さにときどき驚く。必要性を理解できないまま、みんな勉強しているのかもしれない。
それから、なんだか、書く力を育むことばかりが重視され、読む力が欠落しているんじゃないかと思う。

たびたび言っているけれど、「読むこと」は技術である。
国語の読解力問題は、話の解釈を求められているのではない。作者の論点を整理して、その意図を正確に理解する「技術力」を問われているのだ。

読解:文章を読んでその意味を理解すること。文章の意味を読みとること。

解釈:文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。また、その理解したところを説明すること。その内容。

これは評論だろうが小説だろうが同じである。また、古文も漢文もまったく同じ。「作者の意図を問うてどうするのか」と言う人たちは、国語の読解力問題に対する根本的な誤解をしているのだと思う。


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大学の人文学部に進学した私を待っていたのは、まず、テキストを正確に読む力を磨くことだった。1年生の前期授業は、課題を渡され、論点を整理し、それをゼミで発表するという作業を繰り返した。レジュメに起こすのは論者の意図であって私の解釈ではなく、読んでいて考えたことは最後に「感想」としてまとめておきましょう、と説明されていた。

実際にやってみるとわかるが、当初はこれが全然できないのである。
うまくレジュメを書いているように見える学生でも、話の主旨を整理できていない。確かにそのような記述は文中にあるけれども、全体を概観して読んでみるとそこは重要ではないよね、という箇所を拾っている。つまり学生が挙げる部分は論点ではなく、論者が強く訴えたいところでもない、ということだ。

テキストを正確に読む訓練は、「森」の中から「特定の木」をさがすイメージだ。

そして、この作業はそもそも、小学校から高校までの国語の授業において「読解」として問われていることの延長線上に存在している。

センター試験のような択一式問題であれば選択肢から見つけ出せばよいが、大学では、話の整理から論点の洗い出しまで、全て自分で行わなくてはいけない。社会に出て仕事を始めれば、明文化されていない日々の作業の中で論点を見つけ出さなくてはいけないだろう。論点を見つけられない人間が、解決策を導き出せるだろうか? 国語の「読解力問題」は、一つの、あるいは複合的な課題を理解するうえできわめて基礎的な体力であり、必要不可欠な技術なのだ。


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レポートを書くときにも、国語の読解力は必要である。

基本的なレポートは、①客観的な情報の明示、②情報の読解、③意見の表明によって構成されている。学校教育で書くものもそうだし、仕事の復命書もおおよそはこうだと思う。客観的な情報とその読解、自分自身の解釈はかならず分けて書かなくてはいけないが、読解力が未熟だと論点の整理ができないので、そういう人はレポートがぐちゃぐちゃになってしまう。

他者が提示する情報や意見を正確に読むことができないと、結局のところ、自分の意見もぼやぼやっと曖昧になる。概念的に書きすぎたり、的外れになったりする。レポートとは「書く力」だけがあっても仕方ないのだ。


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文章は、世に出た瞬間から書き手を離れて他者のものになる。
だけどそれは、文章の中に組み込まれた作者の意図が消失することを意味しない。私たち読者は、作者の意図を正確に読むこともできるし、無視することもできるし、誤解することもできる、その自由を手に入れているだけである。「発信者の思考」と「受け手の自由」は、常に両立している。

解釈は読者のものであるからといって、私たちは、文章の思想を正確に読むことを否定すべきではない。

また、技術を身に付けてこそ、自由の本量を発揮できるのだ、と私は思う。

評論も、小説も、漫画も、アニメも、映画も、美術作品も、noteのちょっとした記事でさえ、世にあふれているどのような作品も、誰かの思考と文脈のうえに成立している。

作品を「森」だとしよう。私たちは「森」の中を歩くことができる。歩くことはできるが、決まった道を歩いているか、木立を好きに歩いているかは、実は個々の技術力(読解力)によって異なっている。自分では好きに歩いているように思えても、無意識に知っている道だけを選んでいるのかもしれないし、気づかずさまよっているだけなのかもしれない。さらには、「森」の広さを把握できていないかもしれない。

技術を身に付けるということは、「森」の中にある無数の道の存在を知るということだ。そして、それこそが本当の「受け手の自由」だと思う。ものを正確に読む技術があれば、私たちは自ら選んで道を歩き、その中で、まとまりとしての「木々」を見上げることもできるし、一本の美しい「木」を見つけ出すこともできる。縦横無尽に歩けることにより「森」の広さがわかれば、「森」の外側を歩くことも、中と外を比較することもできるだろう。


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――というので、国語の読解力問題は大事なことなのだ。国語の授業で「作者の意図を問う」ことは、文章を読む技術力を磨いているのであり、重要ではないというのは単なる誤解です。評論は具象的課題からの論点を、小説は抽象的課題からの論点を探し出す訓練だと捉えるといいと思う。

「読む力」を磨くと、独り善がりな解釈から抜け出すことができる。他者と自分の思考について、さまざまな角度から気づくことができるのは、喜びと楽しさにあふれている。本当に。読解力を大事にしたほうが人生お得だよ。


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