noteは言葉のInstagram『共感』に疲れていませんか?
noteを毎日更新することを試みている。なんとなく、思いついたこと。
Instagramでもハッシュタグをつけて、自分の「好き」な写真や絵、風景、モノコトを発信している。ベースは視覚的な情報である「画」であるけれど、多くの人の共感を呼ぶ投稿にたくさんの「いいね」がつけられていく。
noteも、SNSの一つなので、基本的な特性が似ているのは当たり前なのだけれど、みんなが自分の好きな言葉を好きなようにつないでいって、多くの人の共感を集めている様子を見たり、流れるタイムラインを追って「スキ」を押していく感覚が、Instagramにとても良く似ている、と思った。
どちらも大切にしているのは、「共感」だ。
その人の好きなもの、好きなこと、それに対する思いや考えが語られていて、それに共感できるかどうか。誰かに共感してもらえる、という経験はとても嬉しいものだ。同じ考えの人がいる、自分の思いが分かってもらえる、そういうことを求めているからみんな「書く」んじゃないだろうか。そうして、まただれかの投稿にも共感する。そんなゆるやかなコミュニケーションがベースになっている。
読みやすい文章は共感が得られやすい。読んで分かることが、共感に先立って必要なことだから。何を言っているか分からないけど共感する、ということはあまりない。
かといって、分かりやすい絵ばかりのInstagramはつまらないだろう。どこのだれか分からない女の子が花束を手前に掲げているような、分かりやすい絵だけが量産されてしまうのは、豊かな表現ではないし、寂しい気持ちになる。
「共感」のために分かりやすい絵を分かりやすいテーマで書くよりも、自分の好きなもの、好きなことを書いているうちに、いつのまにか「共感」が結果としてたくさんあった、となるほうがいい。共感はあくまで帰結であって、それをスタートにしてしまうと「あざとい」だけになってしまう。
たくさんの人の共感が得られるからといって、それがいいものだとは限らない。共感はできないけれど、いい文章だ、と思うものもある。
共感を呼ばないもの、誰からも共感が得られないもの、についても思いを馳せたい。なぜ、こんなにも尖っているんだろう。それでも寄り添える部分はあるだろうか。自分との「ちがい」はどこにあるのだろう、と。
自分の考えや思いとの「ちがい」に戸惑う経験を大事にしたい。「共感」の先にあるものは「ちがい」を楽しむことじゃないかと思う。
「共感」に最近、疲れていませんか?