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怒りを冷笑する人びと



 「怒る」という行為を格好悪いものと捉えて、シニカルに冷笑主義を貫くほうがよほど格好悪い、と最近よく思う。

 無論、何かにつけて揚げ足取りをし、イチャモンをかますのはダサイを通り越してただの幼稚だが、道理を逸したものや、自らが危機や不当さを感じることについて腹を立てるのは、人間として、どころか、動物として当然の反応であって、怒りを感じないものと取り扱うことのほうがむしろ正常ではないのではないか、と考えている。身の危険がそこにあるにもかかわらず、毛を逆立てない動物は、恐らく何かのアンテナが狂っているのだし、そうこうしているうちに生きることを追い詰められてしまうだろう。

 理性は、怒りを抑圧するために持つのではなく、怒りを正しく外へ訴えるために持つべきなのではないか。自らが置かれている環境をよりよいものへ変えたいと願うとき、多少なりとも怒りのエネルギーは必要で、その感情に基づいて声を上げ、言葉で他者へ伝えていくことは、当然の権利だと私は思う。暴力は論外なので言及するに至らないが、冒頭に述べたとおり、その行為を冷笑するのは、はっきり言って羞恥が過ぎるほど格好悪い。怒りを格好悪いものとして見る向きが年々強くなる国内の世論(誰かが作りだしている世論だが)に対し、果たして、それを思考停止と呼ばずして何と称するべきなのか。


 例えば、である。あいちトリエンナーレに端を発した、表現の自由とは何か、という論争が今を以ても続いている。本記事の趣旨とは異なるので大きくは省略するが、そもそも表現の自由とは、西洋社会において、人間としての尊厳を守るために確立されてきた権利であり、イデオロギーであるのではなかったか。尊厳を傷つけられているマイノリティが、怒りを訴える、それをマジョリティがシニカルに笑うという構図を、私は心の底から情けないと思う。

 表現の自由が語られる場面における「自由」は、どのような表現であっても許されてよい、という意味での「自由」ではない。人間が人間らしく生きてゆくその権利を獲得し、自らの尊厳を保守するためにある「自由」だ。だから、例えば一つの表現において、他者に自らの尊厳を踏みにじられたと感じるマイノリティが存在している場合、その表現について、私たちは真摯に向き合い、考え直す必要がある。
 表現の自由は、ほとんど西洋社会から持ち込まれたイデオロギーだろう。日本という小さな島国で閉鎖的に生きてきた私たちは、地続きの大陸において、西洋の人びとが「表現の自由」を獲得してきた歴史的背景への理解をなおざりにし、「自由」という響きの許でただそれだけを声高に叫んでいることが多い。そこで、日本における「表現の自由」への認識に対し、「どのような表現も無規制に許容されうるということではないのだ」と声を上げている層がいるわけだが、彼らに反論を講じるだけならばまだしも、彼らを冷笑し、その訴えからの学びを放棄することはやはり好ましくない。それどころか、その冷笑主義は、本来的な意義での「表現の自由」のために、あるいは人間が人間らしく生きていく社会を希求しそのために闘ってきた人びとの歴史に対し、侮蔑の目を向けているようなものだ。今日日、自らが享受している表現の自由すらも否定している。

 表現の自由とは何か。その論争があること自体を私は否定しないし、歓迎すべきと心得るが、端から聞く耳を持たず、あるいは聞く耳を持っているようなポーズだけを取り、尊厳を踏みにじられていることに怒りを訴える人びとを軽視する態度については、甚だ遺憾であるとしか言いようがない。


 このような態度が、昨今、様々な場面でやたらと目に付く。国内政治や隣国との関係性、各種ハラスメント、ジェンダーやフェミニズム、卑近なところでは、家事や育児といったもの。「私は冷静に状況を俯瞰している」と言えば聞こえはいいが、それは、時によっては、当事者意識を持たないことの裏返しでもある。怒りの感情は悪ではない。状況の改善を望み、主張のためにこそ自らの怒りを客体化する必要はあっても、他者の怒りを愚かなものとして巨視的に見る「ふりをする」ことは、百害あって一利なしとも言える。冷笑主義は、冷静とは異なる。他者の怒りに耳を傾けることができないとき、単に、他者の感情へ寄り添う想像力を持ち得ないだけではないのかと、一度自分自身に問いかけてみることは必要だろう。

 私たちは、怒っていい。暴力は論外だが、自らの危機や不当に対して怒りを覚えること自体は、正常な感情なのだから。





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