「言葉の余白が言葉の意味を誤認させる」
ふと、別のnoteの下書きをしていたときにこの言葉が浮かんだ。この言葉を書こうとした動作を取り止めて、急いでこのnoteを書き留めている。この言葉をたった一文で終わらせるのは惜しいと思ったのだ。この言葉にはきっと私の考えが詰まっていると思った。
そう、言葉には余白があるのだ。空白があるのだ。その事に気づいてハッとした。これはきっと人と人とがわかり合えなかったりすれ違ったりするギャップであり、相手を理解するために必要な鍵なのだと思った。
言葉は辞書を引けばどのような意味を持つのか知ることができる。けれどそれではおそらく足りなくて私たちが想像しうる、共有しうる空白の部分もきっと存在しているのだ。それは感情や状況、偏見、背景等によって左右されることかもしれないしそうではないかもしれない。
私の書いたいくつかのnoteを見て貰えたらわかると思うが、私はなかなか屁理屈で些細な言葉の違いや意味について考えていることが多いように思う。言葉遊びのようなものできっとたたけば埃が出る程度に脆いものだが、私はそうやって私の中で言葉を定義付けていくことで頭が整理され思考の輪郭が浮かび上がってくる。そして私の考え方を共有してもらうにあたって、その言葉の定義を決めないことには自分の考え方が読み手に正しく伝わらないのではないかと思うのである。そのため自分で読んでいても屁理屈で長文で穴だらけで読みにくいなあ、なんて反省することもしばしばだ。
私がそうしてだらだらと言葉に定義付けることは上記のように思考を共有するためだ。定義が間違っていたらおそらく理解してもらえず誤認があると思うし、定義付けの段階でうだうだと書きすぎていやこいつとは話が合わねえと思う人もいるだろうと思う。
どれだけ言葉を尽くしても、思考を共有することはできない。
結局私の言葉は独りよがりなのだと思っている。けれどどうせ言葉を届けるなら私の気持ちを正しく発散したいし伝えたいのだ。屁理屈だろうと。
そして何より私は怖がりなので、誤認させて誰かを傷つけたり怒らせたりすることは本意ではない。だからこれは私が定義した言葉の世界で私の作り上げた思考であるということを、まず始めに共有したいのである。
この「言葉には余白がある」という思考を理解してくれる人はどれ程いるだろう。きっと日本語はその余白の部分がとても大きい。だからやはり話し合うときにはまずは定義を共有する必要があると思うし、相手を理解するためにもその余白を埋める想像力がきっと必要なのだ。
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