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『宿命論』

「アカシアの記録って知ってる?」


「そこにはこの世界が始まってから起こった出来事が全部、記録されてるんだって」


彼女はある時、分厚い本を腕いっぱいに抱えてそう言った。そこに私という人間のことも記されているとしたら、どんなふうに書かれているのだろう。私は世界にとって、どのような存在なのだろう。


「アカシアの記録というものが少なくとも今のところ、人間の手の届くところに存在しなくてほんとうによかったと思う」


「どうして?」


「もしも全てが詳らかにされてしまったら、この世はどれだけ無味乾燥で殺伐としたものになってしまうだろうって考えるの。大きなものから小さなものまで、嘘をつかない人間は一人だっていないでしょ。それは必ずしも悪いことなんかじゃなくて、その中の多くは人としての誇りや優しさから来るものだよ」


まだ幼かった私にはあまり分からなかったけれど、それでもなんとなくその通りだと思った。あれから何年も経って、ようやくその意味が分かっても、その気持ちは変わらなかった。自分を守るための詭弁や誰かを傷つけないための優しい嘘、見て見ぬふりも少しの背伸びも、全ての偽りが白日のもとに晒されれば、すべての人間の営みは影を失った光のように、まったくもって味気ないものとなるだろう。


「その……アカシアの記録っていうのに、この世の全てについて記されているのなら、未来のことはもう書かれているの?」


「もちろん。そしてそこに書いてあることはもう既に決まったことで、決して書き換えることは出来ない……って言ったら、あなたはどうする?」


「困っちゃった?……ふふ、冗談だよ。」


幼かった私には彼女がどうして突然そんなことを言ったのか分からなかったけれど、それが意味のない戯れにはどうしても思えなかった。その時彼女が持っていたのは少しも重くないはずの小さな本だったけど、彼女の細い指に光る指輪の石がキラリとして、その小さな手に少しだけ力が込められたように感じたから。


アカシアの記録が少なくとも今のところ、人間の手の届くところに存在しなくてよかった。見ることができないのならば、決して変えられないという『宿命』もないのと同じだから。知らないから、知りたいと思える。未来を切り拓いていける。どうせ決まっているのなら、頑張っても無駄?そんなはずはない。既に決められていようがいまいが、その決められた未来を知らない私たちは、その行為がやがてどんな花を咲かせどんな実をつけるのかは為してみなければ分からない。


時が経って、私が大人になっていくほどに、かつての私には理解出来なかった彼女の言葉が少しずつ意味を持ち始めた。そして彼女はもしかしたら、アカシアの記録に綴られたすべての未来を、『宿命』を、知ってしまったのかもしれない……と思うようになった。かつて彼女に語った夢は叶うどころか、私は冷たい檻の中で一生を過ごすかもしれない。そしてそれは私の最愛の両親によってもたらされたということも、彼女は知っていたのかもしれない。もう私はどこへもいけない、この薄暗い郭の中で、夜毎に夢を演じるだけなのだ。


だけど私は思うのだ。光差す高みへと真っ直ぐにかけ登ることや、輝かしい未来を掴み取ることだけが、未来を切り拓くということではない。失敗して坂を転げ落ちた先の、光の当たらない地の底でしか生きられない美しい花もある。私たちは誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫のごとく、ひとつだけのゴールに向かってよーいドンで競争させられている訳じゃない。この世に生まれたからには、自分だけのなにかを見つけたくて彷徨い歩くだけだ。決められた『宿命』があるとして、限られた命の中で答えを出さなければいけないことには、どうせ変わりはない。

『宿命』なんて言われなくたって、持って生まれてきたものが取っかえられないことくらいとうに分かっている。苦労して掴んだ未来すら、最初から決まってたって言われたって別にいいよ。どんな道を歩かされたって、道すがら色んなものを拾い集めて腕いっぱいにして、絶対タダじゃ終わらせないから。どんな汚いものつまらないものも、私の手にかかれば絶対にいいものになるって、それだけは信じている。もしそうじゃなかったとして、死んだ後で、とんだ見込み違いだったなって笑えばいいだけだよ。あなたが今どこにいるのか、そもそも本当に存在していたのかも分からないけれど、また会えたら一緒に笑ってくれるかな。私はただ、それがどんな駄作だろうと、私がこの手で書いたものであなたの腕をいっぱいにしたいだけなんだ。あなたの指に光る指輪が、私の書いた本を捲るその動きによって煌めくのを、ただじっと眺めていたいだけなんだ。


『宿命論』

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『宿命論』リング

『宿命論』ブレスレット


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