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リビング・イン・ニア・トーキョー #17


 BUMP OF CHICKENというバンドが小5から中2までの自分の中心だった。

 きっかけは、米津玄師よろしく、「K」のフラッシュを見たことだったとはっきり覚えている。誰が歌っているかも分からない、黒猫の歌。歌詞のギミックもなんだか洒落ていた。
 「おもしろフラッシュ置き場」というホームページには、アスキーアートと一緒に流れる、なんだかかっこいい曲のフラッシュがたくさんあった。「ラフ・メイカー」「グングニル」「ハルジオン」...うまく説明はできないけど、どの曲も、思春期入りたての自分の心を絶妙にくすぐってくれるものがあった。
 それらの曲を歌っている人が全部同じだと言うことに気づき、「調べてみよう」と思い立ったのは少し時間が経ってからだった。フラッシュのなかった「天体観測」に触れるのはそこからもっと先の話になる。

 いちばん思い出に残っているのは「ユグドラシル」というアルバム。
 ツタヤでレンタルに出されるのが待ちきれなくて、自分のお小遣いで買ったCD。ジャケット裏の隠し曲の歌詞を見るためにケースを分解しようとして、力の入れどころを間違えてヒビの入ったそれは、今も実家の自分の本棚に入っている。

 改めて聴きなおしてみる。
 あの頃は、バンプは音楽番組に出ないとか、どのCDにも隠し曲を入れているとか、その微妙にひねくれたところにカッコ良さを見出していたけど、大人になってその辺りのフィルターを消して見れるようになると、また違う側面が見えてくる。


生まれた事を恨むのなら ちゃんと生きてからにしろ

 これは「レム」という曲の歌詞の一節。
 「甘ったれ」に対するド正論がこれでもかというくらい歌われるが、この「ユグドラシル」というアルバムは、通してこの「甘ったれ」に対するメッセージが込められているように感じる。「オンリーロンリーグローリー」も、「乗車権」も、「ギルド」も、「Sailing Day」にも、共通したもの。

 「生きることから逃げるな」というメッセージだ。

 このCDに中1で出会えたのは、ある種の運命なのかもしれない。あのとき無意識に刷り込まれたものだからこそ、大人になって今度はそこに込められたメッセージに正しく向き合うことができている気がする。つくづく、小学校のクラブ活動でパソコンクラブを選んだ自分に心から感謝したい。


 ぼくがこの「ユグドラシル」を聞き直したくなったのは、Twitterでこんな言葉に触れたからだった。

 「デスハラ」

 デス・ハラスメント。
 ぼくはゾッとした。それが日常的に語られる世界が一切想像できないからだった。セクハラのような感覚で、他人に対して「そろそろ死ななきゃね」なんていう事態が日常的に起こっていたら、その世界はとうに世界として成り立っていない。そんな価値観を日常に落とし込めるはずがない。
 「自分と相手はちがうんだ」。「他人」が存在すると分かっている人ほど、この言葉を使うことはできない。

 はずである。

 しかし、自信がもてなかった。それを現実味のあるものとして受け止めている人々がそこにいたからである。インターネットという半仮想的なフィルターの向こうがわでこそあれ、その世界が存在している。かもしれない。恐ろしくなってしまった。

 わかっている。彼らの大多数は、恐らく、「自分に都合の良い世界」が自分の周り半径50センチぐらいにだけ出来上がっていればそれでよくて、それを他人に強要するだけの能力も無ければ、他人と共有しようとも思っていない。
 前提として、自己と他者の切り分けができていない。必然的に無責任になる。 

 「個体として生まれちまった」という現実に目を向けられないまま、いつまでも誰かのせいにしている。無責任という言葉が頭の中に浮かんだ。そして、それが無造作にそこら中に放り投げられている。ぼくは心底怖くなった。

 「生きることから逃げるな」という命題に向き合えない人が、インターネットの世界に溢れかえっている。


 ちょっと前だったらこんな言葉を見ても、ただただ残念な気持ちになるだけで終わっていたのだと思う。
 ただ、例の嘱託殺人の話と、それを取り巻くSNSの空気が、ぼくにそうはさせなかった。

 ぼくは、2種類の断絶を感じる。
 ひとつは当事者との断絶である。彼らの苦しみ、悩みは、どこまで行っても彼らにしか分からないからだ。ぼくらは、彼らの話を聞くことしかできない。そして、彼らの決断を受け止めることしかできない。決して行動の主体にはなれない。そこに、断絶がある。

 もう一つは、この事件を「安楽死」を肯定する材料にしようとする人たちとの断絶である。彼らは、「生きることから逃げるな」という命題と、向き合うことができているのだろうか。ぼくにはとてもそうは思えない。

日本では安楽死は合法化されてはいませんが、1962年の名古屋高裁、95年の横浜地裁の判決で、要件を満たした場合は、患者を死なせても違法性が阻却されるという司法判断が出ています。しかしこれは、医師がまず、患者の苦痛緩和に手を尽くすことが前提になっています。今回の場合、2人の医師はこの患者の治療者ではありませんでした。2人の医師は、手を尽くすどころか、治療を担当してもいなかった患者を殺した疑いをもたれているわけです。つまり、嘱託殺人の容疑者がたまたま医師であっただけであり、今回の患者の死は安楽死とは言えません。

 「デスハラ」という言葉が浮かぶ。自分とすら満足に向き合うことのできない人々が、法制度を無闇にいじった結果、「デスハラ」は閉じた世界から、突如開かれた世界に舞い降りるかもしれない。それによって自分の生が奪われるなんて、到底納得はできない。ぼくはまだ生きていたい。

 もっと言えば、生き死にとは、法も倫理も関係のない、究極的にプライベートな議題だとぼくは思っている。それをなぜ、わざわざ国で認める必要があるのだろうか。国が認めたら、何かが変わるのだろうか?分からない。

 だからこそ、一般論で語られるべきものではないのだ。加害者が何を思い、被害者が何を思ったか。今回の事件の論点があるとすればそこにしかなく、決して「安楽死」の是非にはない。


 なんだか、いろんなことが分からなくなってしまった。

 生まれたことだけは確かで、自分は生きたいと思って生きている。

 でも、そうじゃない人たちがいる。ような気がする。

 そうじゃない人たちに、自分の生きたい気持ちが奪われることだけは御免だ。

 そこだけが究極的な真実なのかもしれない。

 自分は、どこまでいっても自分。

 「人それぞれ」なんだと思う。

 

 「レム」をもういちど聞く。最後にこう歌われる。

 現実と名付けてみた妄想 その中で借り物競走
 走り疲れたアンタと 改めて話がしたい
 心から話してみたい

 そうだよね、と思った。

 一般論で語られるべき話じゃないんだ。

 「アンタ」と話がしたいんだ。

 そこだろう。


(2833字)

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