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リビング・イン・ニア・トーキョー #14


 本業が楽しい。
 ...楽しい!?こんなことがあるんだろうか、と、毎日毎日異次元空間に来たような気持ちで仕事をしている。仕事なんて基本楽しいものではなく、まあせいぜい、楽しい日と楽しくない日が交互に来るのが関の山のはずだったんだけど。毎日楽しい。

 なぜこんなに楽しいのだろうか。それはひとえに、自分のアイデアを評価してくれる、認めてくれる環境があるからということに尽きるのだと思う。
 以前「INFJな日々」で、「不自由を感じるのは、自分が理解されないとき」といったようなことを書いたけど、いまは真逆の状態。自分の考えていることを聞こうとしてくれる誰かがいて、汲み取ってくれる誰かがいる。おまけに、考えていることに沿ったことをやれる。やらせてもらえる。なんて幸せなんだろうか。

 まるで、エンドロールがクルクル回っているような気分だ。
 ここまでの積み重ねがなかったら、きっと今日みたいな状態にたどり着くことはなかっただろう。そう思うと、今までの、苦しかったこととか、辛かったこととかが、全部清算されていくような感覚になる。映画の主題歌みたいな、あの大団円的な空気が頭の中に漂いだす。ああ、いま、ここで死んだとしても、たぶんそんなに悪い気はしないんだろうな。エンドロールがくるくる。壮大な主題歌。

 2年前ぐらいにも、そんな気分になったことがあった。
 あのとき感じていたのは、「ここから先には何もない」という漠然とした感情だった。ここから先はもう同じ日々が続くだけなのだから、これ以上生きる意味もないのだろうと。そう思ったことが確かにあった。今はちょっと違う。「ここから先」を自分で変えていけるという確かな感覚がある。そして、こっちの方が間違いなく「いい」。
 ひょっとしたら、この感覚を得るということが、ひとつのゴールだったのかもしれない。それが得られている今は、自分にとってゴール。だから、いまここで死んだとしても、たぶんそんなに悪い気はしないのかもしれない。

 そんなことを思いながら目玉焼きを作ろうとしたら、大失敗した。

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 大失敗した目玉焼きを悲しい気持ちで食べ終えたぼくの脳は、「本屋に行こう」と思い立っていた。ここ最近、本を買っていなかった。単純に金欠というところもあるのだけど、近場にあまり本屋がなくて、行き/帰りがてらに立ち寄ってみようという気にならなかったのも大きな理由のように思う。ひとつ、あるにはあるが、改札の中にあるせいで毎回140円の入場券を買わなくてはいけない。それはちょっと、金欠の身には気の重いことだった。

 仙台の町の本屋事情は、ここ15年くらいで大きく変わったように感じる。仙台駅前だったり郊外だったりというところに、大規模な書店が次々と作られた。その代わりに、いわゆる「町の本屋」的な、小規模・中規模の書店は次々と無くなっていった。個人的にはこの傾向はどちらかといえば歓迎だった。というのも、自分が欲しいタイプの本というのが、小規模な書店にはだいたい置いていないからであった。そして、大規模な書店というのは、往々にして帰り道に「ほれ、寄ってけよ」といったような具合で鎮座している。これはありがたかった。

 それに、大規模な書店は、特に買いたい本がなくったってそれなりに楽しむことができた。「時間潰し」ではないにせよ、自分の趣味に合うようなものを、ほどほどに時間をかけて探す楽しみを見出すことができる。ここ最近のトレンドであるとか、そういったものを教えてくれるのも書店だ。その点、小規模・中規模の書店ではそうはいかず、数分もすれば一通り廻り終えてしまう。
 ぼくにとって「大きい本屋さん」は、本を買うだけに飽き足らず、一種のアトラクションのようなものになっているのだろう。

 翻ってここニア・トーキョーではどうかというと、3週間前の津田沼ほどではないにせよ、やはりぼくにとっての「昔」を感じさせる何かがある。つまるところ、仙台では絶滅危惧種のような小規模・中規模の書店がそこかしこに点在しているのである。これは、ノスタルジーを掻き立てるという意味ではプラスであっても、欲しい本を探す、であったり、アトラクション的に消費する、という意味では明らかにマイナスであった。いま住んでいる街では、ぼくのニーズを満たすことは、地味にできない。

 さて、そうすると、電車に乗って大きな書店に行こう、というのが、ニーズを満たせる最適な選択ということになってくるのだろう。がしかし、ここでまた別の問題が首をもたげる。電車に乗るということは、改札内に入るということだ。改札内に入ると、そこには書店がある。「本を買う」ということだけ考えれば、なんのことはなく、そこで済ませてしまえるのである。
 それはそれで、1つの目的は果たせるのだろう。しかし、もう1つのアトラクション的な体感は得られることなく終わる。それでいいのだろうか?ここに、大きな板挟みが生じてくる。ならばと言って、ひと駅もふた駅も先にある大きな書店にわざわざ行くというのも、それはそれで無駄な労力になるのではないかという思いがあるのである。

 悩ましい。まるで、さっき大失敗した目玉焼きのよう。優柔不断、決断できないうちに、取り返しのつかない結果を生んでしまう。
 ふと、こうやってモヤモヤもがいているのが、今の自分の状態なのかもしれないと思った。全部うまくいっている。仕事もこの上なく充実している。過不足もない。そう思っていたけれど、ひょっとしたら、そんなことはないのかもしれない。何せ、どっちの本屋に行くかなんて、びっくりするくらいしょうもないことで無茶苦茶に悩んでいるのだ。ちょっと前の自分の方が、そこの決断は早かったのではないだろうか?

 ハッとする。いつもこうやって、あっち側とこっち側を行ったり来たりしている。救いは、まだ気付けることだ。何に?固体化しつつある自分の思想だ。


 決めた。遠くの本屋へ行こう。その方が、楽しいだろう。


(2450字)

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